「しらんけど」の哲学

「しらんけど」の哲学
書いたひと: ヨシダガンジ

上方のことばには、なかなか重宝するレトリックがある。

「しらんけど」
という。

「あした、雨ふるらしいで。しらんけど」
というふうにつかう。

このいいまわしにふかい意味はなくて、無意識のうちに口にするひともおおい。じぶんのいったことは、なにも根拠があるわけではないから、あんまり信用せんといてくださいよ、というほどの意味である。

しかし、ほかの土地にすむひとがきけば、このことばは奇異にうつるらしい。そうなのか、なるほどと話をきいていたところ、「しらんけど」にどんでんがえしされる印象をうけるのだろうか。

関西のひとびとに特有の、とおまわしでやわらかいコミュニケーションをこのむ志向が、このフレーズをうみだしたのだろう。ことばのはずみでいいすぎてしまったとき、「しらんけど」といえば、それまでの話はなかば冗談としてうけとめられる。

世のなかにはなかなか奇特なひともいて、このことばの意味を六つに分類している。

i. 情報が曖昧であることの伝達
ii. 責任回避
iii. 興味の度合いの提示
iv. 相手へのフォロー
v. あくまで私的な意見であることの伝達
vi. オチへの免罪符
(https://magiciandaisuke.com/?p=7636)

ここまでしっかり分析されているのだから、もうわたしがあれこれのべる必要はないかもしれない。しかし、本題はここからである。

「しらんけど」ということばは、じつは哲学的な示唆をふくんでいるのではないか、とわたしはおもっている。

「わたしはしっている」ということ、「わたしはしらない」ということは、一見、二項対立のようにみえる。ひとりの人間がひとつの命題について「しっている」状態と「しらない」状態を同時に両立させることは、おおよそ不可能ではないか。「しっている」ことと「しらない」ことはたがいを否定しあい、絶対にかさならないはずである。

ところが、関西のひとびとは、いともかんたんにこの論理の壁をのりこえる。

「二項対立とかゆうて、えらい高尚な話してはるなぁ、しらんけど」

すなわち、本人にとって「わたしはそうおもう」状態は絶対ではなくて、同時に「わたしはそうはおもわない」という状態と両立しうるのである。「しっている」ことと「しらない」こと、「わかっている」ことと「わからない」ことは、対立しあう状態ではなく、おなじ瞬間に存在している。これを絶対矛盾的自己同一 (注1) とよばずして、なんと表現すべきか。

またべつの側面からみれば、「しらんけど」ということばの脱構築 (注2) 作用をみとめることもできよう。「しっている」ことは「しらない」ことと対立し、かつ優位にたつ状態であるといえる。「しらんけど」は、この優位性を一挙にくつがえしうる。「しっている」かつ「しらない」状態がありうることは、もはや二項対立ではなく、どこにも対立や境界はない。

──わたしはここまで話をしてきたが、理解してもらえただろうか。わたし自身は、まったく理解していない。わたしは「しっている」が、同時になにも「しらない」のである。


(注1) 絶対矛盾的自己同一:西田幾多郎の用語。たぶん、つかいかたをまちがえている。

(注2) 脱構築:ジャック・デリダの用語。たぶん、つかいかたをまちがえている。

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