無題

無題

この記事は、Kumano dorm. #2 Advent Calendar 2020の24日目の記事です。

 これはわたしの備忘録です。記憶は変質し、腐敗し、やがて消えてしまいます。いつか忘れてしまったときのために、いま覚えていること、思っていることを書けるだけ書きました。したがってわたし以外の人間にとって、この文章はほとんど読む価値がありません。

 

 わたしはとある漁村で育ちました。田舎で、狭くて、人が少なくて閉鎖的でムラ社会で息苦しくて、だけど海がとてもきれいなところです。地元にいたころはよく海に散歩に行っていたし、今でも時折港や浜辺の写真を見返します。

 保育園時代。はじめて友達ができた瞬間のことをよく覚えています。みんながはじめたサッカーに参加できず、ぼんやりと眺めていたところで同じように参加できていなかった女の子に声をかけられました。彼女をMちゃんとします。Mちゃんはこのときから今に至るまで、わたしのいちばんの友人であり続けます。

 小学校時代。1年生のときからバスケットボールをやっていて、2年生の夏休みにはチャレンジを1年分溜めていました。勉強は好きではなく、だからといって体を動かすことが好きだったわけでもありません。登校中に出会う野良猫に名前をつけたり、下校したあとに友達とおにごっこをしたりするのが楽しかったくらいしか記憶がない。4年生から5年生くらいにかけては男の人が怖くて、バスケの練習に外部指導者の男性がきて泣き出したこともありました。泣いてしまったほんとうの理由を誰にも言い出せず、言い訳するのに苦労したのを覚えています。だけど同級生の男子とはとても仲よくしていました。なんなら女子の同級生たちよりも仲よくしていたかもしれません。同級生は9人で(これを言うと大体の人が驚いてくれます)、そんな小さな学級でもいろいろな人間関係が発生していたのを、今となってはかわいらしいとさえ思います。

 中学校時代。始まって1か月で20人の学年のうち17人に嫌われました。そのなかには、小学生のときに仲よくしていた男子たちも含まれます。なぜだかははっきりとはわかりません。わたしが男子とばかり遊んでいて女子からの顰蹙を買ってしまったことや、部活で先輩にさぼってる人がいますと言ってしまったこと、教室でいちばん可愛かった女の子と昔から仲が悪かったこと、理由はいろいろ考えられます。Mちゃんもいっしょに嫌われて、ずっとふたりで過ごしていました。仲間外れにされる対象は次々移り変わっていく中で、わたしたちはいちばん上でサイクルを回していた人間たちに迎合しなかったためにずっと輪から外れたままでした。学年で20人しかいないので、もちろんクラス替えもありません。だから20人が詰めこまれた小さな箱庭で、それ自体が世界のすべてであると勘違いしながら、わたしたちはずっと存在を無視され続けて3年間を過ごしました。文化祭とか体育祭とかのイベントごとのときだけ、「みんな仲がいいクラス」を演じるために一緒に行動するよう誘われたり打ち上げに呼ばれたりしました(応じなかったけれど)。気持ち悪いですね。しかし、2年生の文化祭の前にわたしたちに仲間が加わります。彼女をYさんとします。彼女もいまだに連絡を取り合っている数少ない友人のひとりです。3人で掃除用具入れの上によじのぼって本を読んだり昼寝をしたりしていたのが懐かしい。携帯を持っていなかったのでないしょの話はもっぱら手紙でしていたのも懐かしい。成人式は3人でいっしょにいよう、という話もしています。
 部活はバレー部に入っていました。外部指導の先生がとてもいい方だったし、人間関係を部活に持ち込まないという暗黙の了解があって、バレーをやっている時間は純粋に楽しかったです。
 中学生のあいだにいろいろなものを知りました。はじめは三秋縋という作家です。まず彼の思想をインストールし、ちょこちょこ自分なりに改変したのが今のわたしです。わたしの人生を変えたと言っても過言ではない。姉が読んでいて、横からのぞいたときに「待っていても弱まる保証はありません。雨にせよ、なんにせよ」という台詞をたまたま見かけて直感で読むことを決め、それで完全にハマってしまいました。好きな男の子に殺されたいよね~~~わかる。あとスピッツです。三秋縋が好きだと公言していたのでMVを漁りました。スピカを聴いて、「幸せは途切れながらも続くのです」と、こんなにはっきり言ってくれる人がこの世にいることに感動しました。いまでもスピッツが好きです。あと忘れてはいけないのが米津玄師です。2年生のときにリビングデッド・ユースを聴いて、「どうせ公正じゃないのならば僕はせめて味方でありたい、信じられないならそれでもいい」と、こんなにはっきり言ってくれる人がこの世にいることに感動しました。彼は最初からずっとポップでニッチなものを目指していて、それが今実現されていることがうれしくてしょうがない(古参面)。
 中学の同級生とおなじ高校には絶対にいきたくなかったので3年間頑張って勉強します。県内5、6番手くらいの高校に合格し、同じ中学からはひとりだけいっしょに行きました。卒業式のあいだ、わたしはずっと笑顔でした。

 高校時代。まず人の多さに驚きます。ひと学年320人8クラス、中学校の16倍。しかもひとつの教室に40人が詰め込まれています。初日は人酔いしました。だんだん慣れてはいったけれど、クラス替えをいちばん楽しみにしていたのは間違いなくわたしだったし、話したことのない人が学年にいるというのをとても新鮮に感じていました。部活はバレー部に入りました。バレーをやったことのない顧問が強権的で最悪だったけど、バレーはやっぱり楽しかった。バレー部の人たちとはいまだに帰省したときには会います。教室ではぜったいに中学時代と同じ轍を踏みたくないという思いから、自分を出したり人に意見したりということは少なくなりました。いちばん最初の日に話しかけてくれた女の子と、長いこと仲よくしていました。彼女をAとします。Yさんと毎日いっしょに登校していました。彼女の高校は同じ中学からたくさんの人が行っていて、彼女はとても息がしづらそうでした。ごはんを作って食べる気力がない、という彼女に、早起きしておにぎりを作っていったこともあります。電車に揺られながら話をしたり、おやつを食べたり、ねむったりする時間はとても心地よいものでした。あとはTwitterの裏アカウントで自分の感覚を言葉にして整理する、ということをずっとやっていました。わたしの基本的な思考回路はこの時期に今の形になりました。好きな人ができて告白して玉砕したり恋人ができたりしました。2年生の終わりに付き合いはじめた男の子をKとします。
 修学旅行から帰ってきた日、母が高熱を出しました。ひどい腹痛に襲われているようです。父が母を救急外来に連れていき、何週間か検査して出た診断は癌でした。父に大したことない、手術すればすぐ治ると言われ、わたしたち姉妹はほっとして、手術を終え痛み止めを飲んで生活する母に徐々に慣れていきます。
 勉強はがんばっていたし校内でもそこそこ成績はいいほうでしたが、現役時の受験は落ちました。さしたる感慨も失望もなく、まあそんなもんだよな、という感じ。1年(もっとかかるかもしれないが)浪人することが確定します。

 浪人時代。春は順調でした。予備校は雰囲気とかお客さんみたいな生徒の扱いとかが気持ち悪かったけど、勉強は楽しかったです。ほんとうに。高校の授業とかなんだったんだろうな、と思うこともしばしばでした。母は抗がん剤を飲みはじめました。元気そうで、癌だなんて言われないとわからないくらいだった母が痩せはじめ、髪も抜けていきました。だけど母は明るかったし元気だったし、新調したウィッグをつけて家事もわたしといっしょにやっていました。
 Kとの交際は続いていました。が、5月初頭に肉体接触を求められたのがきっかけ(だと思われる)で、徐々に彼への生理的な嫌悪感があらわれてきます。そして夏の初めには、一緒にいるのが耐えられないほどにふくれあがっていました。1か月連絡をしないでくれ、会いにくることもやめてくれと言って夏の間は平穏な日々を過ごしました。抗がん剤を飲む母をいたわりながら勉強をして父や妹と家事をして、大変だったけれど自分の好きなことだけやっていればよいという日々は幸せでした。あとこのあたりで第一志望を京大にしました。とにかく遠くに行きたかった。
 秋になって母の病状が落ち着きます。わたしはというと、数学ができなさすぎる。秋はまじで数学しかやっていない。
 Kに交際関係を解消してくれと言い続ける日々でした。話し合おう、と言われて会いに出ていくたびに駅のトイレで嘔吐し、電話をする予定を立てるたびに手が震えました。なぜこんなことになってしまったのか、わたしにもわかりません。ただ彼と関わることが不可能になってしまったという、ただそれだけでした。彼がなにか悪いことをしたわけではないことはよくわかっていました。しかしわたしは心穏やかに生きていくために、自分を守るために、彼との関係を解消しなければなりませんでした。一方で、そうやって自分のエゴのためだけに恋人を傷つけている自分を最も嫌悪しました。しばらくずたずたになりながら交渉し、春になるまで一切のかかわりを断つ、ということで落ち着きました。
 このころ、先述したメモ代わりのTwitterアカウントで友人ができます。彼をHさんとします。秋はずっと彼と電話していました。家を出て帰ってくるまで一言も発していない日ばかりで話し相手がほしかったのもありますが、Kの話ができる人が身近にいなかったというのもあります。MちゃんもYさんも忙しそうにしているし、Aは大学生になってわたしのことなどかまってくれませんでした。Hさんはわたしが好きそうないろいろなものを教えてくれました。例えば滝本竜彦とか、大江健三郎とか、syrup16gとか、神聖かまってちゃんとか。大体のものが今でも好きです。Hさんは京都にきてからもたまに電話してくれるのでありがたい。
 冬は精神的にきつかった。受験のことはそこまで重くはありませんでしたが、夜1時に寝て朝5時に起きる、という生活をつづけたからかもしれないし、母のことが不安だったからかもしれないし、Kとの関係について思い悩んでいたからかもしれません。電車の中で毎日泣いていました。冬季うつかも。
 12月に入って母の病状が悪化し、入院することになります。わたしたちは毎日父の運転で、車で20分ほどのところにある大きな病院に見舞いに行っていました。父も母も米津玄師にドハマりしており、車ではずっとBOOTLEGが流れていたのを覚えています。母は元気なときもそうでないときもありましたが、病室だったとしても母に会えるのがうれしくて、毎日お見舞いに行くのが楽しみでした。お正月が終わってから、母は家に帰ってきました。合う薬がどうしても見つからず治療を断念した結果で、母の体にはたくさんの管がつながれていましたが、久しぶりに家に帰ってみんなで食事ができることを母もわたしたちもとても喜んでいました。センター対策をしながら、主に父や親戚がやってくれていた母の看病を手伝いました。姉の成人式の日にはわたしもご近所さんが貸してくださった振袖を着ました。みんなで記念撮影をしたそのときの写真を、いまでも大切にとってあります。
 センター試験の前日、1か月LINEを未読無視されていたAから応援メッセージが届きました。イベントの直前だけわたしたちにやさしくする中学時代の同級生の顔が脳裏に浮かびました。センター試験はぜんぜんダメでした。見たことない点とった。けど京大ってセンター配分少ないし二次がんばれば大丈夫かな、と思っていました。
 センター試験の翌日、母は亡くなりました。生きてきた中でいちばん悲しい出来事でした。このときを境に、わたしの世界は決定的に変わってしまったのだと思います。母の形をした虚無が生まれました。そこに何を放り込んでもすべてがたちどころに消滅してしまうような、絶対的な虚無です。言葉では表せない、何に例えても例えきれない、そんな悲しみでした。母の病状が比較的落ち着いていて、いっしょに家事をやったりテレビを見たりしていた秋のことを思い出しました。母が微笑んだように冷たく眠っているその横で、わたしは彼女が穏やかな場所にいることを、秋の午睡のような日々を過ごしていることを祈りました。わたしにできることはそれだけでした。
 それからは母の葬儀をやったり願書を出したり勉強したり私立の試験を受けたり、忙しい日々を過ごします。京大の試験の前日に下見に行ったら、降りる駅を間違えて試験会場がわからず3時間くらい彷徨っていました。しかしその辺にいた人が会場まで連れて行ってくれて、その人が熊野寮のパンフレットを配っていたのです。わたしは合格したら絶対この寮に入ろう、と決意します。二次試験は難しすぎて手ごたえとかぜんぜんわかりませんでした。正直落ちたなと思ってました。
 合格発表を待つ間、Kから連絡が来ました。会って話したいと言われてどうしようもなくなってAに連絡しました。Aはまったくわたしの話を聞いてくれなくて、つまり自分の話しかしてこなくて、すべてがおしまいになってしまいAのLINEをブロックしました。日中は妹とふたりで散歩にいって廃校になった小学校の遊具で遊んだり、波打ち際で遊んだりしていました。牧歌的。発表の日にはそわそわしていたけど、受かっていてびっくりしました。高校の担任が誰よりも喜んでいたのを覚えています。
 その2日後くらいにKと会いました。わたしがなにを言っても、交際関係を解消するということに納得してくれなくて絶望しました。わたしが京都に行くと言ったら、自分も行くから引っ越す日を教えてくれと言われ、恐怖しか感じられませんでした。家に帰ったらKもブロックして、その勢いで高校の人間たちを25人ほどブロックし、不要なものをすべて置いてあたらしい土地へ向かうことになります。

  

 このような経緯を経て京都に来ました。京都にきてからの記録は日記をつけているのでここに書く必要はありません。