〈顔はみえないが名まえはわかる他者〉とのコミュニケーション 発見の手帳 (1)

〈顔はみえないが名まえはわかる他者〉とのコミュニケーション 発見の手帳 (1)
書いたひと: ヨシダガンジ

こんにちは、ヨシダガンジです。連載「発見の手帳」では、雑多な思考のはきだめとして、日ごろの生活で発見したこと、かんがえたことをかきつらねようとおもいます。長文のエッセイやレポートにはなりきれないアイデアをねかせて発酵をまつための場所でもあります。

第1回は「〈顔はみえないが名まえはわかる他者〉とのコミュニケーション」と題して、授業のオンライン化がもたらしたコミュニケーションの質的変化についてかんがえます。

最近の本の表紙にありがちなタイポグラフィー

わたしはある日、とつぜんこのことに気づいて、ひどく衝撃をうけた。

わたしが在籍している京都大学では、昨年5月からオンラインで授業が再開された。後期も一部をのぞいて対面授業はおこなわれていない。リアルタイムでのオンライン授業では、Zoomが使用されている。Zoomでは教員の顔や声のイメージは受講者に伝達されるいっぽうで、受講者の側は基本的にビデオとマイクをオフにして沈黙している。コミュニケーションは教員から受講者への一方通行になりがちだが、受講者はしかし、ほかの受講者の名まえだけはわかるのである。

教室での対面授業では、まわりの受講者はおおくの場合〈顔はみえるが名まえはしらない他者〉だった。けれどもZoom授業では、かれらは〈顔はみえないが名まえはわかる他者〉なのである。わたしはなんの疑問も違和感もなしにこのことをうけいれていた。対面からオンラインにかわったとき、重大な質的転換であったはずのこのことを、抵抗なしにうけいれたのだった。

わたしが衝撃を感じたのは、そのわたし自身の態度なのである。おそらく20年まえ(1)であったら、この転換はおどろきをもってむかえられたかもしれない。ところが、オンラインのコミュニケーション手段が社会に根づいた2020年代においては、〈顔はみえないが名まえはわかる他者〉との接触はごくあたりまえの現象にすぎなくなったのだろう(2)。このようなコミュニケーションの素地がいつのまにかできあがっていたのだ。

そうかんがえつつ、わたしは、少数の〈顔もわかるし名まえもわかる他者〉と多数の〈顔もみえないし名まえもしらない他者〉にむけて、ツイートをしたのであった。

注釈(いいわけ)

(1) この数字に根拠はない。ただ、わたしがうまれたころに父親が新調した携帯電話(おりたたみ式の流行以前のタイプ)をおもいだして、20年まえとしただけである。

(2) 要出典。コミュニケーションの質的変化の要因をオンライン化のみにもとめることは早計だろう。

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