がけのさやこ音楽日記「アヤノちゃんと折坂悠太」

がけのさやこ音楽日記「アヤノちゃんと折坂悠太」
書いたひと: COLOR pencils

 

この日記は、あたしがちょっとむかし、2020年の6月にかいた日記です。

アヤノちゃんの歌は、やっぱりまた聞き始めました。

新曲「抱擁」「閃きは彼方」

ほんとに、どれもいい曲だなぁ…

折坂悠太もオーロラも大好き!


2020.6.20

「プレゼントボックス、試合をしようか」

 

https://www.cinra.net/report/202002-crossingcarnival_ymmts?page=2

 

折坂悠太とカネコアヤノ

世代が同じ二人のツーマン共演。

そんな記事を読んだのは、確かあたしがカネコアヤノちゃんに憧れ始めた去年の冬だったと思う。そして、今またそれと同じ記事を読んだ。

 

本当に不思議、そう、わたしという生き物、それはにんげん、は、いつもいつもちょっとずつ、時にものすごくいつもいつも変化していて、今はもうカネコアヤノちゃんの曲は聞かなくなってしまっている。

自分が見ている世界は、全部自分のかけらで、変化するたび、新しい自分のかけらが増えていくから、世界の見え方もどんどん変わって、新しく、新しく、新しく、そうやって変わっていく。

冬のあたし、それはそう、本当にからだの中にたくさんのものがつまっていて、でも沸騰するには、爆発するにはまだ温度が足りなくて、そんな時見た、全てを忘れ叫びながら歌っているアヤノちゃんの姿は、まさに、その時わたしが必要としている、いのちの輝きだった。

だから、本当に吸い込まれるように、毎日毎日まいにち毎日、飽きずに本当に毎日、アヤノちゃんの曲を朝から晩までずっと聞いていた。

そして聞いていない時は、ずっと頭の中、体の外、アヤノちゃんの曲、いやもう、それはアヤノちゃんの曲としてではなく、あたしの心の叫びとなって、私の声として出てきた。

ファンとかにはならない、ワタシが多分ファンになってライブにいって、そのアーティストを応援して、とかいう風にならないのは、多分そこにある。ヒトの音楽としてではなく、自分の音楽にしたい、音楽を自分のものにしようとするものすごい欲求。欲求は頭の神経、複雑な経路として言語化されて頭にあるのではなく、心臓がなるのと同じように、血液の中静かに脈打っている、そんな感じ。

そして、今、もうアヤノちゃんは聞かない。あのころみたいには歌わない。

それは、自分の歌が増えてきたからというのもあるけれど、なんでだろう?そして、サイキンはアヤノちゃんに変わって、ずっとずっとずっとそう、もうあきずに毎日ずっとオーロラの曲を聞いていた。オーロラもそう、人間中心の世界、理性や論理や言葉が支配するこの世界に対して違和感をもっていたわたし、どうしてこんなにみんな普通の顔しているんだ?感情的になっちゃだめなのだ?わかんない、わかんない、けどなんかこの世界は違う気がする…、その中を野生的なサウンドとキャラクターで走り抜けるオーロラの曲、それはまさに私が必要としている姿だった。

そして、今、かわりつつある、折坂悠太。

一番最初、そう去年の冬に時には、これっぽちも感動しなかった折坂悠太。

カネコアヤノちゃんが褒められている時の方が一緒に嬉しかった去年の冬、折坂悠太。

そんな彼の曲が心地いい。ずっと聞いていたい。こんな曲が作りたい。

なんだろう、そう、折坂悠太の曲は、こうやって文章を書いたり、落ち着いている時にずっとずっと聞いていられる。すべての曲がどこかで聞いたことがあるようななつかしさがあって、声もいいんだ。本当にすごく、聞いていたら落ち着く、親戚にこんなお兄ちゃんがいたら、多分好きになっちゃってただろうなって、思う、田舎の縁側、夏の夕方、海の夕陽、マンションの朝の時間、どこでもいい、穏やか和やかは、どこにでもしみ込んでいるから。

 

試合をしよう。

あのころみたいに、体育館のコートの真ん中。

すべてのエネルギーを体の真ん中に集め、前を見据えたあの時に。

はじまりの笛を待っているの。

 

そんなことを、サイキン思い始めてきた。

前まで、アヤノちゃんが好きだったころは、アーティストやら芸術やら、そういう特別な世界があること自体がいやで、どうして、そういうものは誰かのものなんだろう、上手い人しかやっちゃだめなの?日常にあるべきじゃないの?ってすごい怒っていて、だから、ライブして地道に名をかせいだりとか、とにかく売れたり有名になったり、そういうことにすごい抵抗感があった、そして、それはもちろん今もある。けれど、でも、しばらく自分と向き合って音楽を作っていくうちに、最初はアヤノちゃんみたいな叫ぶような曲しかなかったけれど、穏やかなきもちと一緒にピアノの穏やかな曲そういうのも作れるようになってきて、そしてその曲は自分で聞いていても心地がよくて、自分でもいい曲だなって思えるそういう曲。

一人の時には自信があるの、いや、自信というか、これでいいなって思える、自分の今のこと。
だけれど、それが他人に披露する、他のひとの中で発表する、そうなった瞬間、ひとりの間、音楽を作っていた時の輝きや芽の若さが一気にしぼんでいって、どんどん卑屈になっていく。こんな曲、こんなシンプル、スキルもない曲、誰かきく、いっぱい突然批判が聞こえてきたり。

でも、そう、だからこそ、試合をしようかと思ってきた。よし、わたしもコートに、ステージというコートに立って歌おうか。そう思ってきた。

一人で歌う時とみんなの前で歌う時、これはね、本当にまるで違う。何が違うか、それは、自分の中のこころのうごきが全く違う。一人の時は本当に空っぽ、文字通り空っぽ、だけど人の前で弾くと、あ、今間違えた、次なんだっけ、ちゃんと聞いてくれているかな、あ、間違えたのバレたな、とかそういう人に見られていることに対してものすごく意識が傾いていってしまうから、これは本当に難しい、いい音楽なんてできやしない。だから、人前で弾くときはなるべく、ひとりで弾いている気持ちでいつも弾いています。でないと、困ったことに弾けないのだもの、全然歌詞出てこなくなったりいつも間違えないところで急に間違えたり。

そう、とういうことは、そう。それも全く一緒だよ。中学のバスケットボール、これは中学の部活の中で一番厳しい部活だったと自負していたけれど、その時はね、練習は練習、試合は試合、そういう感じだった。だから、試合になると全然だめ、いつもたくさん走り込みしているはずなのに、すぐに息切れしたり、練習の時あんなに入っているシュートが全然入らなかったり。でもね、練習は面白くって熱中して空っぽで一生懸命やっているの、だから今と一緒なのギター、今の私は中学のバスケットボール部。

空っぽの練習、ぐるぐるの本番。

だけど、一方、高校のハンドボール、これはね、自分でメニュー考えなきゃいけなかっただからね、どうするか、そう、もちろん目標は試合で勝つこと、だから自然と試合の時のことをものすごく意識するようになった。簡単な動作、基本的なメニュー、その中にもいつも試合を感じられるようにと工夫をした、でも、こちらがいくら工夫しようが、やる人が意識しないとどうしようもないんだけどね。

だから、ライブ、そう試合もそう。すべてのしぐさ、そういうものをライブを意識、するのだ。いつもお客さんに見られている感覚で。それでいて、一人で歌っている自由さで。

 

そういう試合を、始めようか。

 

プレゼントラッピング

これはね、折坂悠太とカネコアヤノのツーマンライブの記事を読んで思ったの。

あ、この記事は、折坂悠太とカネコアヤノのツーマンライブっていうプレゼントの、ラッピングだ、ちゃんとプレゼント用のきれいなリボンがついているやつ。

そう、ライブはプレゼント、その後につく批評はプレゼントを包むラッピングよ。

プレゼントの中身を知っている人は、そのラッピングの仕方に驚いたり、悲しんだり、共感したり、喜んだり、そしてプレゼントの中身を知らない人は、一体どんなのが入っているんだろうって、ラッピングから想像するの!

ラッピングだってね、音楽、ライブ、試合と一緒。記事書く人たちにとったら、人に見せるだいじな包装。たとえ、例えば角と角があってなかったり、リボンの色とラッピング用紙の色のセンスが悪かったり、セロハンテープの止め方が悪かったりしても、でもいいの、いいの。だって、それは、プレゼント作る人と一緒、思っていることを包み方で表現するの。ラッピングという表現者よ。中身よりは工夫の範囲が狭いかもしれないけれど、だから。

そう思いたい。批判や批評に恐れず、ちゃんと自分の全てをぶつけて試合をしたい。あとから包むラッピングはそれはそれでお楽しみ、食後のデザートぐらいで楽しみたいな。

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