部屋を掃除するのとGを殺すことって同じこと?

こんにちは京都大学東京大学同好会の会長です。なんか久々にペンを取りますね。もう覚えていない方もいらっしゃると思いますから軽く自己紹介します。Gと東京大学が大好きな京大生です。さて、雑な前置きはともかく、今回は表題の通り部屋を掃除するのとGを殺すことは同じことなのかを考えていきたいと思います。

まず前提ですが、部屋を掃除するとGの餌場がなくなるため、Gは繁殖をしたとしても大半が餓死するとします。逆に部屋を掃除しないと、餌場が維持されるためGは増えます。この時、部屋を掃除してGが餓死した時と、部屋にやってきたGを殺しまくった時とで同じ数のGが死んでいるとします。

さて、これを読んでいるあなたは、部屋を掃除するのとGを殺すことが同じだと思えるでしょうか? ここでは直接的に手を下しているかどうかという点で評価してみたいと思います。

部屋にノコノコとやってきたGを力の限り殺しまくるのは明らかに直接的ですが、部屋を掃除することは別に直接的ではありません。ですが、Gを殺すために部屋を掃除しているのだとしたら、物理的な攻撃を使うかどうかの違いで、直接的に殺しに行っているように捉えることもおかしくないのではないでしょうか。逆に、Gを殺すためではなくただ部屋を掃除しているのだけで、いつの間にかGが死んでいたという場合は、作為がないわけですし、お茶目な感じがします。裁判的に言ったら、作為があったことの証明は難しいですが、不作為であることを証明するのも難しい感じがします。まあ、偶然だとしたら仕方ないかって感じがする人も多いのではないでしょうか。

ここで、Gをスズメに変えてみましょう。穀物を厳重に保管することと、穀物を食べる害獣としてスズメを殺すのは同じでしょうか? もしここにスズメ以外に穀物を食べる害獣がいないのなら同じと言えるでしょう。しかし、現実にはスズメ以外にも穀物を食べる害獣は沢山います。イナゴとか蝗とかLocustとかいろいろ。

得られる結果が同じなら、より安くて手っ取り早い方法を取ろうとするのは人間の常だとは思いますが、その得られる結果が同じかどうかはどれだけ厳密に評価しようと思っても、特に生態系のようなまだ謎が多いものの場合は、想定外の結果が得られることも多いです。スズメを大量に狩った中国では蝗害によって大飢饉が発生しましたし、オオカミを絶滅させた日本では鹿や猪による害が年々深刻になっています。「風が吹けば桶屋が儲かる」や「バタフライエフェクト」の、あんまりいい効果が起きない版と言えばわかりやすいかもしれません。

政策評価というのは、行う政策の対象が複雑であればあるほど想定外が起こりやすいので、慎重にしなければなりません。もしこの想定外が起こった場合に、皆さんは仕方ないかと諦められるでしょうか? それともその政策の責任者に腹でも切らせますか? 単純に罰を下そうにも、想定外の結果の責任を取らせるには人一人じゃ足りないでしょうし、その人だけに罪を被せるのもおかしな話に思える。意思決定に関わった全員に腹を切らせていたらキリがない。

ここではどういう契約体系がいいとかいう話はしませんし、自分も強固な持論がないので話せません。ですので、これを読んでいる皆さんには、自然や社会や人体と言った未知のものに対しては、結果が同じように見えても取った手段によって全く異なる結果が得られることが多々あるということ、そしてその想定外の結果の責任を運命の悪戯以外に求めるのも難しいということを覚えてもらえたらと思います。まあ、自然や社会や人体は想定外の宝庫だよってことです。ただ、ここまで脅すようなことを言っていますが、想定外から得られることも世の中多いですし、なんなら新しいものというのは基本的に想定外なものなので、老若男女問わずどんどん挑戦していってもらいたいなと思いつつ、ここで筆を置きたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。次の記事をいつ書くかはわからないですがまたお会いしましょう。

 

P.S. Gは落ち葉でも食ってればいいんでみんなが掃除して人の住処からGを排除していくのには大賛成です。多分部屋の生態系などというものは相互補完ではなく人間からのおこぼれで雑に成り立っており、それがなくなっても外の生態系に戻るだけだと思うんでGを排除してもいい気がします。