京大熊野寮、また時計台登ろうとしてるがあいつら暇なんかwww

京大熊野寮、また時計台登ろうとしてるがあいつら暇なんかwww

 本日、我々京都大学熊野寮生が、時計台に登ろうと決起しました。皆さんは、時計台に登るとなると「危ない」だったり、「また怖いことしてるな」と言うでしょう。京大生は「またあいつら時計台に登ってやんの、きっと暇でバカだからそんなことしてんだろうな」と笑うでしょう。熊野寮の現状に関する前提知識が無ければ、確かに上で述べたような「またバカ学生がなんかやってるわ」というような意見が出てくるかもしれません。しかしながら、我々は学生運動の真似事がしたい訳でも、ただ登りたいから登るというわけではないのです。この記事では我々が時計台に登ろうと決起した理由を主張していきます。この記事で伝える文脈を理解してはじめて、我々がなぜ時計台に登ろうとしたか、その背景がより明確になるでしょう。

 我々が時計台に登る目的ーそれは

寮自治会と大学執行部の間での対話の再開

 です。

2014年以前には熊野寮自治会と大学執行部の間には確約というものが明確に結ばれていました(★)。その確約の中には「自治会と執行部の話し合いは団体交渉(注1)という方式で行う」「副学長が変わるたびに確約は引き継がれる」という内容がありました。しかしながら、2016年、副学長が川添氏に変わるやいなや突然一方的に「団体交渉を行わない」「確約を引き継がない」と言い放ちました(注2)。寮自治会としては、大学執行部との対等かつ民主的な話し合いの場を一方的に壊された形になります。

(★)確約はずっと結ばれている。確約は今でも有効であるが、大学執行部が一方的に反故にしてきたという認識である。

 2016年以前は例年熊野寮祭で恒例行事となっていた時計台占拠ですが、2017年から大学は登ることを禁止すると一方的に通告しました。そう、つまり2016年以前は自由に、平和に行うことができていたのです。寮自治会に対して何も事前通告の無いまま禁止されたことに対して、大学の窓口で説明を尋ねても、納得のできる返答を得られませんでした。団体交渉を開くことを執行部に求めても、一方的に拒否するだけだったのです。

 こうして5年近く、寮自治会と執行部の間では民主的な会議が開かれることはありませんでした。この間、執行部は寮自治会に対し、一方的に寮に関する様々な事柄を命令・禁止し、寮自治会が求めていること(特に寮生の生活に関わる切実なこと)への対応が遅れることにもなりました。私たちは、ひたすらにこうした現状に我慢してきました。

 では、この現状をどう打破するか?

 当然我々も時計台に登ることのリスクに関しては重々理解しています。しかしそのリスクを冒してまで時計台に登る意義があります。その意義とは、大学執行部の身勝手な振る舞いをより多くの人に知ってもらうためです。時計台に登ることは我々にとって大きなアピールの場になるのです。時計台に登る学生が悪いという意見を持つ人が一部いることは織り込み済みですが、我々が時計台に登ることで多くの人に今の京都大学の現状を知ってもらえるのです。

 この状況がおかしいと思った皆さんは、是非貴方の家族や友人にこの記事を共有してください。「大学執行部がおかしい!」と思う人が一人でも多く増えることが、我々の置かれている現状の改善に繋がるのです。

(注1) 2014年以前、熊野寮自治会(以下寮自治会)と、京都大学の運営を数人でのみ決める、大学執行部(以下執行部)の間では団体交渉という形でもってお互いにとって重要なことを決めていました。この議場公開・人数無制限・原則匿名の団体交渉という話し合いにより、寮自治会と執行部の間にある権力関係を対等にし、パワハラ等が起きない民主的な手続きでもって熊野寮に関する重要なことを決めています。その団交で決められたことの結晶と言えるのが確約です。副学長が交代するたびに、団交が開かれ、確約は長い間引き継がれてきました。

(注2) しかし、2016年から事態は一変しました。川添副学長となってから、一方的に団交を開くことを拒否し、確約を破棄したのです。これにより寮自治会と執行部の間での交渉の場は大きく失われ、執行部から一方的に指示を受けるようになりました。交渉の場を持とうとしても、窓口交渉という団交よりも非常に間接的な形態、もしくは議場非公開・人数制限・実名公開を条件とした少人数交渉のみしか認められなくなりました。現在の京都大学には「学生の本分」(非常に曖昧な概念である)にそぐわないものを停学や譴責処分にすることができる規定が存在しており、大学の方針と異なる学生を処分することが可能となっています。団体交渉はそのような力の差を埋める手段なのです。

(補足)「時計台に登る自由」とは一見取るに足らない愚行の自由に思えますが、あくまでも自由は自由です。そもそも愚行かどうかは極めて恣意的に大学のような権威ある組織によって操作することができます。どんな自由であれ、守ろうとしないとやがて我々がより大きな価値を置いている自由へ、権威からの抑圧が及ぶことになります。そのため、地位の低い学生が対等に大学と交渉に及ぶことができる団交は自由を守るために非常に重要なものであり、大学によるその拒否は自由を削る動きへの第一歩なのです。 

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