失われつつある「自由の学風」どう考えるべき?

失われつつある「自由の学風」どう考えるべき?

まえがき

この記事はKumano dorm. Advent Calendar 2021の19日目の記事です。もしよろしければハッシュタグ「#kmnac2021」で宣伝&感想とかをつぶやいてくださればと思います。書くのが遅くなりました…。あと、文の内容ももしかしたら読みにくいかもです…先に断っておきます。

 

「自由の学風」。京都大学に入学した方なら一度は聞いた言葉だと思います。「京大といえば自由」みたいに、京大の代名詞ともいえる言葉だと思いますし、このフレーズに惹かれてこの大学を目指してきた方も一定数いるのではないかと思っています。

そんな中、この「自由の学風」が失われつつあります…と色々なところで言われます。実際に起きた事実で言えば、ここ数年で「自治寮とのこれまで通りの話し合いの場が閉ざされている」「11月祭の規制が強まっている」「キャップ制の強化」「コロナ禍対応の名の下の過剰なまでのサークル規制」などなどかなりの数になります。学生側がこれまで本来享受できていたはずの「自由」の果実が失われてきているといっても過言ではありません。

また、大学というのは人の入れ替わりが激しい施設です。単純に考えて、ストレートに行けば学部生は4年ですべて入れ替わってしまう計算になります。もちろん大学院生や長く京大にいらっしゃる教員の方々の存在も一定数はありますが、学生・スタッフ全体から見れば多数派かというと疑問符がついてしまいます。

そのため例え数年前享受できていた自由を取り戻そう、と声高に叫んでも、特に享受できていないことがデフォルトで入学してきたような学生たちの中で少数派の意見と捉えられる可能性も否定はできません…。これが一つの問題点…。

 

京大の「自由」に深く関わってくる言葉に「自治」があると思います。「大学の自治(あらゆる学問活動への圧力に対する大学の自主性の確保)」「学部の自治(大学の総長・理事などのトップ役員(いわゆる「当局」)に対する各学部の独立性)」などが有名ですが、そのほかに「学生による自治」という考え方もあります。これは(私の中の解釈では)学生が自らの学生生活の環境においてある程度の決定権を持てる、自分たちの手で改善していけるということだと思います。

こんなわけで、当然「学生による自治」は「自由」に深く関わってくるわけですね。学生生活のあり方を自分たちで「自由」に決められるわけですから。

もちろん「自由」には「責任」が伴う、これが世間一般の認識だと思いますし私もその意見には賛同します。しかし裏返して言えば、学生などの「自由が認められている」ということは、それを認めている側(そもそも「大学が認めている」という言い回しが不適切!とか思う人もいると思いますが…)が学生などを「責任ある主体」として尊重しているということに他ならないと思います。これは非常に認められている側にとってはありがたいことですし、しっかり学生などの意見を尊重してくれることで学生も、そして教員や職員にとっても快適な大学ができるということを意味すると私は思います。

当然、自由を認める側(ここでは大学?)は我々以上に「責任ある主体」であることが求められるわけですね。そもそも大学に我々授業料を払っているわけですし…

しかしながら近年の京大は上で列挙したようにどんどんと我々を「責任ある主体」として尊重しなくなってきていますし、大学自身も「責任ある主体」であることを放棄しているように思います。さらにひどいのは、学生のみならず現場で働いている職員や教員なども含めて同じような対応をしている疑いがあるということです。

その疑いを濃くした最近のニュースですが、京大にある「保健診療所」の診療終了が「組織改編」の名の下に突然アナウンスされたことが話題になっています。結果として神経科の診療はすぐに休止にならず当分の間継続されること、学生総合支援機構、健康管理室という名前である程度の業務が継続されることが発表されはしましたが、一般診療などの文字は大学が発表している通知にも見当たりませんでした。

もちろん、大学に予算があるのは重々承知していますし組織の見直しも最大限福祉的な部分を削ってほしくないとは思いますがやむを得ない場合もあるとは認識しています。ただ問題(だと私が捉えている部分)は、おそらくこの決定がかなりトップダウンで行われたということでした。第一報を広げることになった理学部相談室のTwitterでは12月1日に

保健診療所での診療が来年1月31日で終了し、神経科は12月8日(来週月曜日)に初診の受付を終了するそうです。 特に神経科には、こちらの相談室に来てくれた学生さんがとてもお世話になって来たので、これからどうなるのかな…と思います。

と発信がされており、またその後12月13日に

お問い合わせをいただいたりもするのですが、保健診療所がこのあとどうなりそうかということについての情報はまだ私には入って来ていません。先月、保健診療所の先生ともお話しする機会があったのですが、その時点では、保健診療所の先生たちもご存知ないようでした。

という内容のつぶやきを発信がされています。これはすなわち、保険診療所の組織改編に関わる(と大学当局で発表されている)理学部相談室の方や、当事者である保健診療所の方々などもこの件に関してはきちんと聞かされていないということではないでしょうか。トップダウンで現場の声を聞くことなく意思決定をしたのではないかという推測は、不自然なものではないように思います。

冒頭に挙げたようなこともそうですが、現在の京大から「自由が奪われている」と考えるのはこのような、学生や職員などに不利益となるようなことを大学側(いわゆる「当局」)が一方的に、トップダウン形式で決めてしまうことと言ってもよいかと思います。

もちろん自由でいわゆる「おもろい」京大というのも大事だと思いますし、守っていかなければならないものです。でもそれ以上にそもそも学生の利益になるようなことが一方的にどんどん制限されていく状況。これも一つの問題点です。

 

この状況はすべての学生にとって非常に重要な問題です。上で、「自由を取り戻そう」派が少数派とみられかねないという話が再び出てきます。例えば往年の「学生自治」が復活したとして、もし「自由の学生にとっての良さ」を知らずに「自由は別にいい」派が多数派を占めてしまい学生の総意として「京大に自由はいらない」となってしまったら…

考えたくもありませんが、こういう状況が起こらないとは言い切れないのが今の現状です。こういうことを防ぐためにも、「自由を取り戻そう」派の人々は多くの様々な学生(や職員)に対して、「大学(当局)の自由の制限はこれこれこういう所がおかしい。これは我々に不利益になりかねない。大学(当局)は対応を改善すべき」ということを少しずつでも納得してもらう必要があると私は思います。これはもうもはや「政治」です。

大体の国政や地方自治体での選挙結果を見ていると、パフォーマンスも効果がないわけではないですが最終的にものを言っているのは地道な活動と強固な地盤づくりであるように思います。我々、京大の「自由」を守りたい人々も煽動的なパフォーマンスを目的化することなく、最終目標を見失わずに地道に合意形成をしていく必要があるのではないでしょうか。近くの京大生に現状を話せば、同じ「京大受験」を乗り越えてきているわけですから、多少なりとも共感をもって話を聞いてくれるはずです(私の最近の実感です)。

 

あとがき

締め切りに遅れた上に長々と面倒くさそうな話を書いてしまい申し訳なかったです。また、普段ならnoteとかに書くんですが、もしよければ「千万遍石垣」のほうで書いて、というお誘いがあったので本ページで初めて投稿させていただきました。先人のみなさまが結構ゆるめの記事が多い気がするのでそういう意味でも申し訳なさがあります…

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