私が京都にたどりつくまで

私が京都にたどりつくまで

この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2021の25日目の記事です。

 

昨年のアドベントカレンダーを読んでいて、自分語りをしてみたくなった。日頃考えていることや、自治論、何を書くべきか迷ったが、ここはひとつ昔話をしてみたい。

 

私は心のふるさとを宮城県にしていて、実際に一番長く住んだのは宮城県なのだが、生まれは高知県の四万十オーストリア村である。

オーストリア村と聞いて面食らうと思うが、これは自治体が公称するあだ名のようなもので、本当の名前は佐山町という。

レンガと石畳のある海沿いの景色がオーストリアに似ているというので、町おこしの一環で「四万十オーストリア村」を名乗り始めた、つまらない田舎町だ。

 

佐山町はつまらない田舎町ではあったが、それなりにいいところだった。私の住んでいた家の裏手には汚水槽があって月に一度は点検が来ていたが、それはつまり下水道が整備されていないことを示していたし、街灯がまったくないので日が落ちると道を見るのが難しく一度水路に落ちたことがあるほどだったが、それでも夏の暮に合唱するヒグラシの声や、海に向かう坂道を下ると大きくなる潮騒、とれすぎたナスをお裾分けしたら二倍で返ってくる魚とか(これは両親は大変だったかもしれない)、そういうものを今でも懐かしく思い出す。

 

さて、そんな佐山町だが、今は地図を調べても出てこない。

私の家も、小学校も、水底に沈んでいるからだ。佐山町は、いわゆる「ダムに沈んだ村」の一つである。

佐山町にダムができることは、物心つく前にはすでに決定していて、私が佐山町に住んでいた9年間でも住民の撤退は進んでいった。隣の家が基礎だけになるのを見送り、私たち一家も母の実家のある宮城に引っ越すことになった。

 

ダムになってから、一度だけ佐山町を訪れたことがある。高台にあった中学校のすぐそばに水面があるのは、なんだか変な感じがした。町はまるごと高台に移転していたので、昔の友達にも何人か会って、それはそれでたのしかったのだけれど、ダムに沈むのを機に遠く東北まで引っ越してしまった自分はなんとなく後ろ暗い気持ちになって、成人式も佐山町にはいかなかった。

 

宮城での生活は楽しかった。それまで縁のなかった北国での冬にも慣れ、雪の上の歩き方も上手くなった。

高校受験にもなんとか成功し、県内の公立高校に進学した。

その高校で転機が訪れることになる。

オーストリア留学の案内があった。私は、佐山町とのつながりが戻ってきたように思った。実際には私とオーストリアの間にはなんのつながりもないのに、オーストリア村に住んでいたという理由だけで、私は留学を決めた。それを許してくれた両親には今も感謝している。

ウィーンは素晴らしい街だった。道を歩いていると、あれがラフマニノフの生家だよとなんでもないことのようにホストファミリーが教えてくれた。ウィーン駅から10分も歩くとバルト海に面した港に着き、そこが人々のたまり場になっていた。活気を差し引いても佐山町には似ていなかったが、私は初めての海外に舞い上がった。

 

ウィーンは西欧らしく市民運動が盛んだった。私が訪れた時も、ウィーン駅前でダム建設の反対運動がおこなわれていた。

もしそれが政権への批判や、労働運動であったなら、私が興味を惹かれることはなかったかもしれない。

しかし、ダム建設の反対運動。

これだ、と思った。私はビラを配っていた人に片言のドイツ語で話しかけた。

彼らは「ウィーンのための選択肢」(WtS, Wien no tameno Sentakushi)と名乗るナショナリスト政党の学生組織だった。でも、WtSの全てに賛同してるわけじゃない、と言う人がいた。ウィーンで生まれて、ウィーンで育ってきた。そんな僕らがウィーンが沈むかどうかを決められないのはおかしいだろうと。

私はその理念に強く共鳴した。

彼らはウィーン至上主義的で、目的のためならば手段を選ばないところがあった。私はWtSに入党した。18歳だった。初めて火炎瓶を市議会庁舎に投げつけたとき、手が震えた。

ゲバルトの行使…。実力闘争に身を投じることに躊躇いがないわけではなかった。

バルト海を眺めていたとき、私は唐突に、ドイツ語で暴力を意味する「ゲバルト」ということばはこの海から生まれたのだと理解した。ほとんど天啓だった。バルト海とは、すなわちゲバルトなのである!

それから私は一切の迷いを捨てた。この街を守護(まも)るためならば、多民族を排斥し、反対思想は粛清する心づもりだった。

 

しかし、ついにその日は来た。ウィーンに水が入れられる日だ。

 

私は同志たちがシャンゼリゼ通りを走るのを見た。黒いバンから飛び出し、栓に飛びつき、なんとか栓を抜こうとする彼らの姿。あんなに大きなダム栓が抜けるはずがない、そうわかっていたが、私は願わずにはいられなかった。彼らに希望を!

しかし、国の職員が蛇口を開いた。ラフマニノフの生家が、シャンゼリゼ通りが、濁流に飲まれてゆく。

オーストリアを想う者が、オーストラリアによって命を絶たれてゆく。

涙が止まらなかった。

 

私は国民国家に絶望し、オーストラリアを後にした。

 

羽田についたとき、空港に漂う出汁のにおいにほっとした。その時のなんとも言えない気持ちをよくおぼえている。国策に翻弄された故郷、オーストリア政府に見殺しにされた同胞たち、私とどうしたって不可分な共同体の文化…。

 

新版の世界地図を持っている読者は、ヨーロッパの地図を開いてほしい。

ダムの計画段階から指摘されていたことだが、ウィーンダムは湖面が海抜以下であり、徐徐に海水の流入を阻めなくなり、形ばかりの堤防も2016年に水没、完全にバルト海の一部となった。計画段階では東欧のみずがめと呼ばれ、30000kLもの水をたたえたウィーンダムは、バルト海の拡大という結果に終わったのである。

左翼の巣窟のウィーンを、理由をつけて消したいだけだ、というのがまことしやかに囁かれていたが、あながち嘘でもなかったのかもしれない。

 

今日のように寒い日は、あの日のシャンゼリゼ通りを思い出す。