「この意見は論理的だ」が間違っている理由

「この意見は論理的だ」が間違っている理由

「この意見は論理的だ」、「これは論理的な主張だ」といった発言がされることがある。ここでは論理的という言葉がなんとなくその意見がもっともらしい、正しそうという感じを出している。このような発言(のほとんど)は論理的という言葉の使い方を間違っている

どのように言葉の使い方を間違っているかというと、カテゴリーミステイクを起こしているのである。カテゴリーミステイクであるというのは、つまり言葉が本来適用されるべき種類とは違う種類のものに適用されているということである。例えば、「あのポストは四角い色をしている」という文が正しくないのは、ポストが四角くないからではなく、四角いが形状を表す言葉であり色の種類を指すのではないからであり、したがって四角い色という表現がカテゴリーミステイクを起こしているからである。

では、「この意見は論理的だ」はどのようなカテゴリーミステイクを起こしているのだろうか。それは、論理的という表現が適用されるのは意見ではなく、論証であるというカテゴリーミステイクである

ここで意見や主張という言葉で言い表しているのは、典型的には「○○は××である」のようなものであって、この世界で何が起こっているかや、我々がどのようにするべきかなどについて何らかの内容を正しいと主張しているものである。それに対して、論証というのは構造をもったいくつかの主張の集まりである。どのような構造であるかというと、論証には前提と呼ばれる主張と、結論と呼ばれる主張があるのである。例えば、次は論証の例である。

(前提1)すべての人間は死ぬ
(前提2)ソクラテスは人間である
(結論)ソクラテスは死ぬ

論理的な論証というのは、その論証の前提がすべて正しいときには、その論証の結論もまた必ず正しいという性質を持つような論証のことである。したがって、先ほどの論証は論理的な論証である。このことからもわかるように、論理的であるというのは特定の意見や主張についてのものではなく、複数の主張からなる特定の構造についての性質なのである

先ほど論理的であるというのは論証の性質だと述べたが、正確には論証の持つ形式の性質だと言った方が良いかもしれない。つまり、ある論証が論理的であるかはその論証に現れる主張の内容には関係ないのである。特に、論証が論理的であることはその論証の結論の主張する内容が正しいことを保証しない。このことは、次が論理的な論証になっていることからわかる。

(前提1)ひれをもつ海中生物はすべて魚類である
(前提2)イルカはひれをもつ海中生物である
(結論)イルカは魚類である

この論証の前提1は間違っており、結論も誤っているが、全体としての論証は論理的である。

意見や主張が内容を持つということは重要な点である。論理的というのは内容とは関係のない概念であり、意見や主張の内容についてお墨付きを与えるということはありえない。前提と結論という構造をもつ論証という対象に対して、その前提から結論を導くことそれ自体が問題ないかを評価するのが論理的ということであり、前提や結論そのものの正しさとは無縁である。

「この意見は論理的だ」などと言って、その意見の主張する内容が正しいものであるかのように喧伝するのは論理的という言葉の使い方を間違っている。論理的なのはせいぜい手持ちの前提からその意見を結論として導く論証であって(もっとも、論理的という言葉を自分の主張に箔をつけるためだけに用いている人が本当に論理的な論証をしている場合など稀であろうが)、その場合でもその意見が信用に足るものであると保証するものでは必ずしもないのである。