今の時代には閉塞感がある、というけれど、どうだろうか。私は実感としてあるけれど、それは私が置かれた状況固有のものに過ぎないのだろうか。訳知り顔に、若者はいつもそう考えるものだ、と返されれば、ぐぬぬ、なにも言い返せない。確かにその通りなのだろう、ある程度は。客観的に見て、私がこうやって千万遍にだらだら、しまりのない文章を書き連ねていることも、あるいは恥ずかしいことなのかもしれない。ん?
『客観的に見て』???
いったい、「客観的に見て」とはどの位置から見たことを言うのか。社会一般なのか、世間なのか、仲間うちの空気なのか、未来の自分からなのか、それとも科学的に規定される一点があるのか、神か、はたまた不動の動者か。
定義上、世界の外側に出ることはできない。現在の外に出ることもできない。だけど、あたかもその外に立っているかの如く、世の中が全体としてどうなってるかをアレコレ言い立てることはできるし、それがあって初めて、世の中を全体としてどっちの方向に持っていきたいかが言える。世の中の色々なことは縁起に依って互いに密に結合しているから、局所的なことを変えることすら、世の中の全体像が必要だろう。
もし、時代に閉塞感があるとするならば、それは世界の外側に立つための理論が、世の中の全体像のモデルが無いからだろう。乃至モデルがあったとしても、ほどけばほどくほど絞まる結び目のように現れてくるからだろう。私にはそう現れる。
自由は別のやり方を試すことができる自由なのであって、実質的に同じものしか選択肢がポップアップしないならそれは自由ではない。全然違うメニューを提供する理論が必要だ。
皆、置かれた場所で必死なのだろうが、その合成された結果があまり上手く出力されないことがあまりに多い。なぜ東京五輪の開会式は上手くいかなかったのか。コロナ禍のグダグダはなんだったのか。私はいまだに根に持っている。皆が皆、無能ということはないだろうし、有能無能はその人が成した結果により判別されるなら、そんな循環参照みたいなラベリングはナンセンスだ。個人ではなくシステムの問題に帰着させるべきで、そのシステムの相互依存関係はどこまでも続き、底はない。世の中を全体としてどうすべきなのか誰も知らない。偉い人はSNSでアホばかり晒しているが、それでもじゅうぶん選良だ。。。
というわけなので、マイ理論を立てます。まったくの蛮勇です。でも理論を立てなきゃ新しい実践もないから。不細工で隙だらけの理論かもしれませんが、大目に見てください。自分自身を客観視しないことによってこのプロジェクトは成り立っています。えてして偉大なプロジェクトというのは自身の状況に対する盲目が、つまり根拠のない自信がその成果に先行しているものですから。世の中のハンパない複雑性を縮退させられる頑健な道具のような理論というのは、その環境たるカオスを吸収するために穴だらけになっているものです、どうか叩かないで。たたき台にはなるつもりですが。