理論をつくろうシリーズ#1 自治と労働

理論をつくろうシリーズ#1 自治と労働

全部を語るのに、まず、どこから始めようか…ええと、自治は大事だと思う…KyotoScience氏の言うように、(なにか自治が大事だと思うことを補強する文章を書きたい)

大上段に物事を語ろうとして口どもってしまうこと、これもポストモダンの精神なのだろう。手段では無く、目的の妥当性を語ろうとする文章であるから、どうしても直線的に書きづらい。物語も最終目標に向かって進むのならわかりやすいが、これから向かう最終目標地点についてたどり着いてもいないのにあ~だこ~だ語るのは、モヤモヤするしなんだか分かりづらい。まず取っ掛かりとして労働から考えてみよう。

人間がその日常を維持するためにはなんらかの労働、即ち環境のカオスから自己に有益な秩序を取り出すことが必要だ。そのへんにあるもの(パソコン・床・机・お茶・友人・自分の手など)を手当たり次第に食べたら死んでしまうし、家を建てたり服を着たりしなければ恒温動物たる我々は真冬に凍死してしまうからだ。

そして、それを十分に効率よく行うには、分業やコミュニティが必要である。まったく他律的な組織といえど、ひ孫請け孫請け下請けと、主体性の階梯を登ってゆけば、誰かしらは何かしらの判断を下しているものであり、その意味で自治組織と言える。日本政府であっても構成員が1億人の自治組織と見做せるかもしれない。たとえ、個々人によって、その意志が組織全体の意志に干渉できる度合いが異なっていたとしても。

自治の必要性は人間の労働の必要性から導き出せると私は信じる。パラフレーズすると、自らの行動を自らの意志で決めることは、外部環境のカオスから自己に有益な秩序を取り出す作業において必要不可欠だ、ということだ。

この言明に対しては、自治抜きでも「自己に有益な秩序」をもたらすことができるのでは無いか?そもそも「自己に有益な秩序」というのは自己意識に対して十分に明らかではないのでは無いか?といった反論が考えられる。つまり他律的な存在となり、全体に奉仕する存在になったほうが幸福なのではないか?もしくは、何をすべきか、上から下から世間から歴史から、とにかく外部存在に決めてもらったほうが幸福なのではないか。権威主義的(パターナリズム)になったり、部下の言う事を聞いたり、周りの空気を読んだり、有職故実をしたりしたほうが良いのでは?ということだ。

これは私には容易に判断しかねる。ただ、「自己に有益な秩序」は人と人との間で共有不可能であるということは示せるだろう。例えば、キミが8人乗りの車でグループ旅行に行ったとする。そのときカーステレオでどんな音声を流したいかは人によって異なるだろう。ヨルシカがいいかイ・パクサがいいかDiggy-MO’がいいかGinger RootがいいかマクロスFがいいかCOMPLEXがいいかPAS TASTAがいいか鶴光のオールナイトニッポンがいいか、八人八色だろう。そして、自分の趣味と180°違う音楽が常に密閉された車内で流されていると気が狂ってくるかもしれない。

「自己に有益な秩序」、即ち趣味のバラバラさこそ、人間の多様性そのものだろう。そしてこれを外部の価値観から守る営みこそ、「自治」であると私は考える。

ただ、自治の根拠になる、ヒトの趣味、個人の主体性というものがポストモダンの世においてはすごく怪しいものとなってしまっている、、、趣味は、欲望は、場の空気にある程度規定されたものであるし、個人の主体性というものも文化的に構築されたものに過ぎないのではないか?という疑念がある。まぁこのへんはまたの機会に。

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