この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2024の16日目の記事です。
前の日はかとけいさん、次の日はみかみかみさん
良い教育(要定義)を受けて良い大学に行き、当然ストレートで卒業して大きな会社ないし新進気鋭のベンチャー企業に就職し大都市に住むのが「正解」であり、子に一定程度以上の教育を受けさせるモチベーションのある親の元に生れた子はその「正解」を目指すことを社会から要請される。もう少し分解するならば、まず農村から離れ都市で暮らす親は何をするにもまずは貨幣資本を可能な限り多く手に入れることが重要であり、特に何も一芸を持たない子にはとりあえずネームバリューのある大学に行かせておけばそれを獲得しやすくなって幸せにさせることができると社会から信じ込まされ、大半の子はその親の元真剣に疑問に思うことなく彼らの社会の大半である学校で行われているテストなり通知表なりのレースで先頭を目指して競争していたらいつの間にか先述の大企業就職コースに乗せられている、というのがだいたいの大学生なりサラリーマンなりの実情だろう。だいたい大学進学率なんて50%ちょいしかないのに、気づいたら進学校に入ってるからエコーチェンバー?で大学進学が普通で高卒で働くのは一部の親に負担をかけない奇特な人みたいな認識になっている。就職についてもそうだろう。なぜ高々国土の14%しかない大都市圏での生活が前提になっているのだ。可住面積を考えても倍以上の選択肢がある。
確かに、農水産物を自らの手で十分に生み出すことができない我々はこの貨幣経済において基本的には貨幣を手にしなければ生きていけないというのはその通りだが、これは“生きていくには”という話であって幸せになるには必ず経済的な資本を手にしなければならないというのは偽だろう。ほどほどに経済的資本を獲得し、それでは得ることのできないものを得るために余力をまわすという選択肢や、経済的資本以外で獲得可能なものはそれに代替するという選択肢が捨象されている。社会が個人に国際的な競争力を持つ集団の一部になって他者とたたかうことを要請するための方便であるように思える。何をするにも間に貨幣を介在させなければならないという消費者的な精神性が染みつきすぎた。
自治というのはそれと対を成す概念であり、人々の互助関係の中で社会を完結させることを志向する。
京大、というか熊野(見ている限り他の自治会や自治寮でも)にいると、周囲の自治精神に中てられてそのような自治精神を獲得することになるが、これは身の回りのものを自分でする、住環境について自分らで意思決定を行なうということに留まらず、将来何で金銭を得るか、どこに住むか/住まないかといった進路選択にも大きく関わってくるものである。例えば、周囲の人間と互助関係をもつ生活が欲しければ隣の住民の顔も見えない都市の鉄筋コンクリートの森抜け出して田舎で職を見つけて暮らすということになるだろうし、職業選択上も経済的な資本に依存する必要がないという精神性から選択するそれはそうでないものとは明らかに異なるだろう。
在学中に有機農業に傾倒し、学部で得た知識では飽き足らず、企業に就職することなく会津の農家に修行に出た先輩がいたが、そのような選択ができる京大生がどれだけいるだろうか。そのような行為はつまり、世の中の「正解」から逸脱する行為であって様々なところからの反対意見は免れ得ない。
しかしながら、我々は熊野寮で、社会というものが必ずしも正しい訳ではない、何なら全然間違ってるということを身をもって学んでいるので、その逆風に立ち向かうことができる。私は忘れっぽいのでてっきりそのあたりの思考はだいたい高校生くらいから常に持っていたような気でいたが、よくよく思い返してみると熊野で得た部分も小さくはない。私が4年間の京都での生活で得た最も大きいものはそれだろう。
次に大きかったものは山岡家の喪失感である。
であるからして私は大学院では札幌に戻る。山岡家とやりたいことがあるから。
私はやりたいことの都合上一度就職という選択をすることにしたが、それにしても単なる金稼ぎではなくその職に就かなければできないことをするために就職すると決めたため、幾分大学を卒業することに対する心理的な障壁が低くなった。例えば南極観測隊に入るとか。元来職業選択ってそういう風にあるべきだよね。よく大学生がやってる(と社会に信じ込まされている)就活みたいにどれでもいいから沢山の企業を受けるみたいなものが私にはよく分からない。行くぜ南極。