有名な話であるが、自由には2通りある。freedom(選択権)とliberty(改変権)である。日本語ではこれらがどちらも「自由」という言葉で表現されるが、元来は全く異なる概念である。噂によると西周が訳語を作る時にチョンボしたらしいが、それはどうでもいい。
大事なのは次の点である。
自分や他人の「自由」を守ることは民主主義社会では大事であり、それが全体の利益にもつながる。ただしその際には「選択権」と「改変権」の両方を守らないといけない。
この「選択権」と「改変権」の違いについてもう少し説明してみる。
例えばあなたが孤島にいて、島にあるたった一つの飲食店のメニューが「カレー味のうんこ」と「うんこ味のカレー」だったとしよう。ここで
島唯一の飲食店がこれなら、明らかに束縛がある…。
・「カレーうんこ」「うんこカレー」「飢え死に」の三択から好きなものを選ぶ自由が【選択権】
・シェフをぶん殴って「カレー味のカレー」を作らせる自由が【改変権】である。
選択権と改変権の概念図。どちらの自由も利益をもたらしている。大事なもの。
繰り返しになるが、自由を尊重する場合、他人の選択権のみならず、他人の改変権をも守らなければならない。例えば「シェフを殴るなんて、許せない!」といってカレー味のカレーを作らせることを妨害する人は、他人の改変権を侵害していると言える(注1)
選択権はともかくとして、改変権は「スキル」に近い性質を持つ。上の例でいえば、シェフをぶん殴るのも、シェフに正しい指示をだしてカレー味カレーを作らせるのも、「いや実質的にうんこか餓死やないかい!」と気付けることも、確かにスキルに近しい物を感じるだろう。
スキルであれば「訓練」できるはずであり、実際に多くの大学ではー多かれすくなかれー伝統的には改変権をどう鍛えるかに焦点をおいた教育がなされているのである(例えばあえて教室で鍋をするよう促すとか、査読に耐えうる研究プロジェクトを自分でやらせてみるとか。)
・ライセンスと手続きは改変権を奪うか
さて、元来「選択権」と「改変権」は多くの地域で自然と行使されてきたものである。日本においても、例えば「自由民権運動」は「改変権」の例であり「移動の自由」は「選択権」の例であろう。自然な権利なのである。しかしながら、現代日本では「選択権」にのみ重きがおかれ「改変権」がないがしろにされつつある。
「改変権」がないがしろにされつつある理由として「ライセンス化」「デジタル化」の影響は否定できない。デジタルの世界では、できること・できないことがライセンスによって決まっており、これはあたかも天が定めたルールのように作用する。例えば我々はWebサイトで物やサービスを売買するために多数の決済を行うが、決済手法を提供する側が「お前のサイトでは使用禁止な」とライセンスを制限すれば、そのWebサイトでは一切の売買ができない(もちろん別の決済手段ではできるが)。国家ですら滅多なことでは行えない営業停止処分に近いことができるのである。これを当たり前のように国民が受け入れている(注2)。
もちろんWeb上の安全性を守るためには、ライセンスによる安全性の確保は大事である。例えば赤の他人が顧客リストを閲覧してクレジットカード情報を全て盗んだり、自分の仮想通貨がいつの間にか盗まれているようなことは避けなければならないだろう。「うちではこのルールで運用します。いやなら辞めろ。よそに行け」というのは一定の説得力を持ってきた。しかし、それだけでいいのだろうか…???(注3)
・改変権のトレーニングを行おう。まずは大学から。
自由は民主主義社会の根幹をなす概念の一つである。選択権も改変権も自由の一種ではある以上、どちらも可能な限り守られなければならない。しかし自由主義社会において自由同士が衝突することは往々にしてあり、これは最初からシステムに組み込まれていなければならない。双方の自由を可能な限り行使するためのノウハウを社会と個人が獲得することーすなわち「交渉の練習」ーが必要である。例えば自治とも呼ばれるだろう。
注意すべきこととして、例えばよくあるカスタマーセンターや意見箱のような「取り上げるかどうかの決定権が片方にしかないシステム」は、今回取り上げる交渉とはなりえない。「決定権を片側→両側に移すこと」が改変権の根幹であるからだ。
まずは一旦既存のルールとされるものを無視してみたり、場の目的とは異なることを堂々と実行してみたり、新しい価値観を提示してみたり、人事権を無視して居座ってみたりするのはどうだろう。例えば教室で鍋をしてみてもいいし、グループチャットで空気を読むのを辞めてもいい。こうした改変権行使の「練習」を積み重ねることで、改変権を上手に使えるようになるだろう。
改変権を行使する場としては、大学が有益だと思う。元来大学は現実を改変する手段(学問といいます)を体系的にまとめたり、伝授したり、アップグレードしたり、大学以外の社会と戦ったりする機関だからだ(注4)。改変権行使を身に着けたり実践する場としては相性がいいだろう。ちなみに学生自治の主目的の一つは「現場の人間の改変権を担保すること」にあったりする。選択権(いやなら大学を辞めろ、とか)の行使のみを目的とする議論は、的を外していると言える。
大学で改変権の行使を覚え、大学の外へと広げていってほしい。加えて言えば、学籍がなくても大学に来て、改変権を使えるようになってほしいなと思う。これも改変権行使である。(大学は改変権行使の能力を実質的に担保し、民主主義社会を守るインフラとして、堂々と予算を請求してほしい(注5)。国内外の津々浦々で適切に改変権が行使されれば、より人々が自由になり、生きやすくなるだろう(注6)。 訓練により改変権の使い方を覚えるのだ。
(注1)選択権と改変権が矛盾したときにどうするのかは様々な議論があると思うが、一般的にはより強く抑圧してくる側を改変することになるだろう。例えばこれが東京の新宿で、周りになんぼでも店がある場合は店への「改変権」行使はあまり認められないだろう。別の店に自由にいけるからである。仮にこの店にしかいけない事情がある人に対しては、その人の「選択権」を強化する方向が望ましいだろう。例えば別の店にいけるようなモビリティや他店のクーポンを配ったり、仮に親兄弟を店に人質に取られている場合は(そうでもないと新宿でこんな店には行かない気もするが)奪還するなどである。逆にこれが離島の場合、改変権は絶対に認められた方がいいと思う。
(注2)Web上での選択権と改変権をめぐる議論は深い蓄積があり、CC-BYライセンスや著作権管理団体を始めとする種々の発明ともいえる革新があることを付記しておく。Webが何でもかんでも悪いわけじゃないよ。
(注3)例えば「椅子取りゲームの罠」等を参照。椅子取りゲームの罠 | 千万遍石垣
(注4)例えば紙にこだわる自治体に対してデジタル化の音頭をとったりする、半導体人材がいない土地で工学部や物理学科を作って半導体人材を育成して企業を誘致する、国会議員や首長の不正を告発する人間を抱えておくなどが、最近の戦いの例としては挙げられるだろう。
(注5)販促!RYOUTONOMY!! 第7回! ~今、なぜ学生自治なのか 学生自治2.0を語る上での基礎理論 (おわりに)~ | 千万遍石垣