20250902日記 #2 現実世界に落とし込む

20250902日記 #2 現実世界に落とし込む

・人生について

人生でやりたいことが「霞(という名の知的好奇心)を食って生きていきたい」に集約されてしまった。さて、どうしようか。

まず基本スタンスとしては、たくさん寝れて、好きな本を読めて、思ったことを文章に書いて、たまにどこかに出かける。以上の条件さえ満たしていれば満足してしまう。人生はそれで完結しそうなものである。地位や名誉は別に要らない(あるに越したことはないが)。50歳になった自分が同じことを言っているかどうかは怪しいが。

 

 

未知のものにとにかく触れたいという欲求の消失

かつては「未知のものにとにかく触れたい」といった荒削りの好奇心で駆動していたことを思うと、いくらかは落ち着いてきたのではないだろうか。これまで真に未知だったものの構造を大まかに理解してしまったが故に、全ての事象が持つ未知性が失われてしまい、昔のような爆発的な情熱は消失したと言えるのかもしれない。私の視点からすると、世界の未知性がだいぶ薄くなったように思う。

 

要は「世界の仕組みは何らかのシステムによって規定されている」という気づきによって、私から見る世界は大きく変容を遂げた。社会構造が人々の行動を(相互作用的に)規定する。それら全ての構造を理解することなぞ到底かなわないが、大まかなアウトラインはたかだか有限個数の基本原理の組み合わせで説明がつくのだろうと感じるようになった(逆に言うとこれまではそんなことすらよくわかっていなかったわけだが)。これは地味に大きな変化だと感じている。

 

このようなアウトラインさえ見えていなかった自分にとって、世界というものは全てが未知の存在であった。世界が持つ神秘性は、私に解明されることを待ち望んでいるかの如く、こちらを照らして光り輝いていたわけである。しかし、アウトラインを何となく掴んでしまった結果、世界の持つ未知の部分の多くが失われてしまった。つまり未知のベールが剥がれた世界は、自分の思案によってある程度解体可能な存在へと堕落してしまったわけである。

 

 

未知のものに問答無用でアタックしに行く情熱は影を潜めてしまった一方で、じっくり腰を据えて構造を理解するという快楽の味を覚えてしまった訳である。衝動性が失われた反面、計画性がついたわけではない(?)。

 

 

 

仕組みの話をするために仕組みを作る

ここまでは、未知のものに突っ込んでいく衝動性が、じっくり腰を据えて世界を解剖したいという欲求に変化したことを話した。

そして、最近生えてきたもう一つの欲望として、「人と仕組みや構造の話がしたい」というのがある。

仕組みに興味があるオタクとしては、仕組みを触ったり作ったりしている人と話をするのは楽しいと思う。

ただし、仕組みや構造の話をできる人間は限られており、そもそもそういう人たちは忙しいので会って話をする機会は限られている。ゆえにこの欲望は現状あまり満たされていない。さらに、私が分野を指定せずに仕組み仕組みと喚き続けているせいで余計に難易度が上がっている(昨今の知的労働を担い手に求められるのは専門性であるため)。つまり現状この欲求は叶っていない。

 

というわけで、この欲望を満たすための方法論について考える。

一番簡潔に思える方法は、「これまで作った仕組みポートフォリオ」を提示して仲良くなりに行くことだと思う。というのも、仕組みの話ができる人は仕組みの制作に携わることが多いため、必然的に他の人が作った仕組みに興味を持つはずなのだ(多分)。ポートフォリオを掲げながら「これまでこういう仕組みを作ったことがあります〜」という顔をしてこっそりDMを送り、仲良くなって話に行くというのが一番手っ取り早い方法だと考えている。

 

つまり、私の喫緊の課題であるところの「仕組みの話ができる人と話す」を達成するには、「これまで作った仕組みポートフォリオ」を整えることが必要なのだ。

 

 

そういうわけで、仕組みを作るぞ〜という意欲はふつふつと湧いている。しかし、果たしてどう仕組みを作ればいいのか、はたとわからぬ。仕組み作りに携わるものであれば分野は一切問わないのだが、だからこそどういう分野の仕組みを作るのが良いのか定まらない。

 

 

仕組みと経済的基盤のトレードオフ

仕組みを作ること自体は極めて簡単なんだけど(ほんまに?)、それを維持してある程度の採算をとらなければならないとなった瞬間にかなり難易度が上がる。ポートフォリオに乗せられる仕組みを作ることが目的であって、維持することが目的ではないため、維持管理にコストが吸われるのも本意ではない。

 

 

そもそも、私は生活ができてたまに旅行に行けるくらいのお金があれば十分だと思っているので、お金には全く興味がない。しかし、お金というのはあるに越したことはないので、歳を取っても夜行バスやLCCで体を酷使しない程度の交通手段を使えるくらいには経済的基盤を確保したいと考えている。これに関しては50歳になっても18きっぷで15時間くらい移動している可能性も否定できないが。あと流石にブックオフではなくて新品定価で本をスパッと買えるようになりたい。

 

経済的基盤は直接的にはどうでもいいとは思っている一方で、経済的基盤があるに越したことはないとも思っている。

 

当面の間は仕組み作りと経済的基盤の二つを両立することを目的にしたいところだが、これは相当難易度が高いと感じる。仕組みを最終的に自分で保有したいという欲求を捨てるか、経済的安定性を捨てリスクをとって不確実に突っ込むことによって難易度が下がるのだろう。どこに折り合いをつけるかが問われているに違いない。

 

仕組みを自分で保有したいという欲求はそれなりにあって、権限や裁量があればあるほど自分は動きが活発になるタイプの人間なので、なるべく権限や裁量を最大化したいと考えている。そのためには仕組みを自分で保有するのが最適と言えるだろう。まあ難しいんですが。

 

要は仕組みづくり欲求の充足と経済的基盤の確立を両立させられる方法論がいまいちよくわかっていないのが悪い。誰かよくわかっている人がいたら教えてください

 

 

 

 

 

 

・自分の考え方について

どうやら私は考え方がそれなりに異質であると、最近わかってきた。どう異質なのかはうまく説明することができないが、物事の仕組みや構造に対する理解力だけがやたらと高いんじゃないかというところに帰結した。

 

しかし、物事の仕組みや構造に対する理解力の価値って今まで定量的に評価されたことがないと思っていて、またそういう能力を伸ばす教育も受けたことがないと思っている。果たしてこの能力は必要なのか、役に立つのか。

 

結論としては、「仕組みや構造を理解する能力は間違いなく必要だが、現実世界に落とし込まないと意味を持たない」

つまりどれだけ仕組みや構造を理解する能力に長けていたとしても、それだけでは何も生まれない。理解した仕組みや構造を現実世界にアウトプットして初めて物語がスタートするわけである。脳内で理解した仕組みや構造を現実世界に落とし込まないと何の意味もないというわけである。

 

現実世界にアウトプットする方法としてはいくつかパターンがあると思っていて、たとえばなんらかの表現方法を用いて抽象度を下げるという発想がある。文字だったり絵だったり音楽だったりするわけだ。つまり創作というわけである。生憎私には自分の頭の中にある仕組みや構造を表現をする方法を持たない(大体集中力がすぐに切れるので完成しない)。

あるいは、その仕組みや構造を自分で組み上げて、それを回し続けるという方法もある。これはいわば商売だ。さまざまなパーツを組み合わせてビジネスモデルを組んで、価値を生み出し、信用や現金と交換する。

また、見つけた仕組みを発表するという方法もある。これは研究だ。調査や実験をして、論文を書いたり発表をしたりする。

 

いずれの方法にしろ、頭の中にある仕組みや構造を現実世界に落とし込む能力が合わさってはじめて何かがスタートするわけである。それは表現物を完成させることであり、リスクをとって事業を立ち上げることであり、長い論文を書き切ることである。

 

 

では、頭の中にある仕組みや構造を現実世界に落とし込む能力を私が持っているかというと、大きな疑問符がつく。正直よくわからないのだ。あるような気もするし、ないような気もする。少なくとも長い論文を書き切る能力は今のところない。

 

 

なぜわからないかというと、特に習わなかったからだと思っている。学校教育の範疇では特にそういう教育も受けていないし、そういう能力を測られた記憶もない。そもそも定量評価可能なものなのかも怪しい。この辺の能力は独学で試行錯誤して唸りながら身につけていくしかないようにも思う。

いずれにせよ、仕組みや構造を現実世界に落とし込む能力があると言えるようになれば、次の行動(仕組みや構造をアウトプットする)を検討することができると考えている。落とし込む能力があるのかないのかは現状わからない。どう定義すればいいのかもわからない。というわけでこの思案はここで一度凍結された。

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