寝不足でのたくった考えの文章

寝不足でのたくった考えの文章

世界文明が散歩をはじめた。生産性の向上があり得るのは、潜在的なポテンシャルがまだ残っているからだ。自然や人間にいまだ開発されていないポテンシャルが残されているのだろうか。フロンティアは、発展途上国は50年以内には消滅するのではないか?目的地の近くまで来たので、ナビが沈黙してしまった。

「運転お疲れ様でした/ここまでの道程のリザルトの報告」

進歩史観がもはやあり得ないんだったら、散歩史観しかない

単線的な発展ではなく、でたらめな進化に拠る歴史観

神のひとり子への収束ではなく、妖怪へと適応放散していく

正解が約束されていないのであれば、とりあえず理論を立ててみて、プロジェクトを前に投射して、実践をとにかくやってみて、PDCAサイクルをブン回すしかない

しかし、そのように忙しく動くことこそが、心を亡きものにすることこそが、世間一般で通用するところの「資本主義の精神」というものではないだろうか?必死で歩き回っているとき、地下街でトイレを探しているとき、周りの景色は目に入らないのではないか?

むしろ、我々はブラブラ散歩することを学ばなくてはならない?←なんのために?←欲望が、つまり需要が消失しているから←人生を楽しむための「教養」ってやつ???←そうかも

地球環境や資本主義の欠点を是正するには「海外セレブ」ではなく、東洋の文人や仙人の振る舞いを目指すべき。個人的な欲望としては、地球を巨大な免税店ではなくて日本庭園にしたい。SDGsならぬ「すげえジジイs」

それは、自己や他者のポテンシャルを引っ張り出して発揮させることではなく、自足を目指す/自足したものを観賞すること?

足るを知る経済(プミポン国王)

規模の拡大を目指さないのは敗北主義だろうか

量より質。しかし、質とはなんだ。みんな無印良品か。カレーはうまい

人間は字のごとく、人との関わりを持って生きなければ不幸になるのだろうか?だけど、未来にはみんな貴族のような生活をするとすれば、貴族のようなコミュニケーション、社交を身に着けなければいけないのか?

貴族の貴は、拡散よりは収束に通じる。品のよい振る舞いをするということは、世間的に通用している品のよい振る舞いに自己の振る舞いをあわせるということなのであって、つまりは沢山空気を読むということだ。

品のよい振る舞いはその自己言及によって過激化していくだろう。纏足や孔雀の羽のように。人工環境に対する過剰適応によって形成される階級構造は、文明の退廃の兆候だ。

退廃した文明は、また元気を取り戻すのか?創造性がまた新たに創造されるのか?

近代化により世界が1つになり、どこでも同じようなものが見られるようになった。いろんなものを知れるようになった。便利になった。そのグローバル化の過程で富も蓄積できた。しかし私にはある種のエントロピー増大則が思い浮かんでしまう。つまり、AとBを混ぜ合わせてCができて、かつエネルギーが取り出せても、CからまたAとBを分離するには同じかより大きいエネルギーを要するということの類推から、今の文明の黄金時代は、異なる文化が急速に結びついたことによって生じたものであって、それは最早再現不可能なのではないだろうか、と思えてしまうのだ。カンブリア爆発のような高度経済成長は二度と起こらないし、新たなイノベーションも新たな文化創出も、以前というか現代のような速度では、未来永劫起こり得ないんじゃないか。そういうことだ。フロンティアの喪失によって、人類文明は土地(=生産力)が増えない中世のような時代に突入していくのではないだろうか。

この新しい中世という観点において、イエ制度の復活やプラットフォーム荘園領主といった概念が現実味を帯び始める。性制度が自由であり得たのは、テクノロジーによってフロンティア、つまり稼ぎ先がいくらでも見つかって、多動力のある人間が有利だったからではないか?椅子の数に限りがある社会では、イエを作って子々孫々にそのポジションを継承していくことが椅子を見つけたり新たに作ったりするよりも戦略として合理的なのではないか?

AIと宇宙開発しか勝たん。でも何に勝つのか?

昨日までの自分?

遺伝子組換えで爆盛り超人の娘/息子を拵える

しかし、人工環境のサラブレッドは自然環境では生きていけない

手弱女振りの貴族 vs 益荒男振りの武士

高度な文化は一般的に民族を柔弱にするとされてきた

「民族」なんて言葉が出ちゃったよ う~ん

吉川晃司と布袋はやっっぱいいっすね。

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