・孤独について
最近はだいぶマシにはなっているが、かつての私は基本的に希死念慮マシマシの斜めオタクであった。その原因となるものと、生きづらくない生き方が大体わかってきたので、まとめようと思う。
つい数年前まで、私は間違いなく孤独であった。とは言っても一人の世界に入り込むタイプでもなく、お笑いが好きだったことも幸いし人とよく話すし、周囲にはそれなりに友人がいた(と私は思っている)。側から見れば問題のない生活を送っていたかのように思えるかもしれないし、普段の生活ではそこまで大きな社会的な問題を抱えているとは思っていなかった。しかし、実際の私は漠然とした違和感を抱え続けており、寂寞感を抱き続けていた。というのも私の脳みそは少々変で、常に周囲とギャップを感じていた。結論から言うと人と違ったレイヤーから世界を捉えていたわけである。全ての構造が見えすぎる、万物に対して異常なまでの知的好奇心がある、遠くまで論理を維持することができる、言葉に対する感度が高い、など一風変わったレイヤーから世界を見ていたため、周囲の人々と真に馴染むことができなかった。
端的にいうと、お笑いの話ができる友人がいても、自分から湧き上がる知的好奇心や世界の仕組みを解き明かしたいという分野を問わない欲求を一緒に共有できる相手がいなかったわけである。私は放っておくと、山に行って樹木や生き物の名前を調べたり、難しげなことを書いていそうな本を読んで思索に耽ったり、何かを見て仕組みや構造について一日中思考を巡らせたり、その場その場で思いついた文章を書いたりと、全てが散逸しており無茶苦茶なわけである。私はこのタイプの脳みそをした人間を南方熊楠大先生に倣って「熊楠脳」と呼称している。熊楠脳を持つ人間は、世間を見渡していると確かにいるがごくわずかである。熊楠脳の人間に出会えてちゃんと話ができればいいのだが、これまでの人生では難しかった。
私は特定の分野に興味があるわけでもないのが厄介で、専門性を重んじる現代のアカデミアとも妙に相性が悪い。結局私の寂寞感を解消してくれるものは、「万物に興味があります。興味のあるものは仕組みや構造です」という文脈で人とコミュニケーションをとることに集約される。
そのため大多数からの承認も求めていないし、お金も名誉も社会的成功も何一つ興味がない。仕組みや構造で盛り上がっている自分を肯定してくれることただそれだけなのである。社会的な成功に興味がないというよりも、素直な状態の自分の肯定が常に欠乏しているので相対的に社会的成功がどうでもよく見えているのだろう。自分が肯定できない状態が続くのは寂しい。長くは持たないだろう。世俗的な成功をどれだけ収めても、結局は満たされることはなかった。結局自分が肯定されなければ意味がない。私が求めているものの本質的な構造は、承認欲求と一緒である。
・承認欲求と分かり手について
このように私は常に自分の肯定を求めている、自己承認欲求まみれの人間である。素の自分を肯定してほしいという強い願いを持ち続けている。そして、その承認欲求を満たせる人間の絶対数が少ないことも明らかである。私を肯定できる人間は、自分と同じような脳みその全部ないしは一部を有していることが必要であり、統計学的に見るとその数は極めて少ない。
だからこそ、「分かり手」にさえ理解してもらえればいいという思想に落ち着きつつある。お金が儲かっても虚しいだけだし、社会的な地位や名誉なんて欲していないし、その辺の人に褒められても何も嬉しくない。どこかにいるはずの空想上の分かり手を捕まえてきて、そいつにただ肯定してもらえさえすれば人生の大部分は解決したようなものである。
社会的なあれこれを本当にどうでもいいと思っている一方で、自己承認欲求だけは一丁前に高いという非常に難儀な性質である。しかも自己承認欲求を満たせる人間も限られている。
私は常に分かり手を募集しています

