・愛とBaratro
Baratroというポーカーを元にしたローグライトゲームがある。手札のトランプで役を作るたびに得点がもらえるのだが、得点の算出方法は二つの変数の積であり、それぞれの変数の値は役の強さなどによって決定される。ステージをクリアするたびに2つの変数の値を変化させる条件を持つアイテムを入手することができる。例えば、「スペードのカードを使うと一つ目の変数に+10ポイントされる」とか、「フルハウスを作るたびに二つ目の変数が永続的に+5される」などの条件がアイテムに紐づいている。役を何度も作り色々な条件を組み合わせることで、得点を大きくしていくというゲームである。
さて、愛とはBaratroである。どういうことかというと、愛が目指す最終的な目的は、自分・相手・共同体それぞれの幸福を示す変数3つの積を大きくしていくことだと考えているわけだ。自分≒相手≒共同体と同一化してみると、最終的な自分の幸福を3つの点数の積だとみなすことができる。そして、さまざまな条件によって、各点数の値を変化させることができる。たとえば、自分の幸せと相手の幸せが一致していれば、自分が幸せになる過程で相手の幸せの変数を増加させることができるし、自分の努力によって相手を幸せにできるのであれば、相手の幸せの変数を増加させるために努力する原動力となる。
このように色々な条件を組み合わせて、3つの変数の積を増やして幸せの総量を増加させて行こうとする一連の試みこそが愛なのではないかと考えるわけである。条件は人間的相性によってある程度決定されるのだろうし、色々模索することで発見される場合もあるし、後から無理やり追加させることも可能だろう。
そしてこの愛というゲーム、なんとトップメタアイテムが存在する。それは「相手の幸せが即自分の幸せであると感じる」という条件のアイテムである。2枚積みできればループが完成し、相当量のスコアを叩き出すことができるのだろうが、これは本当に高尚な精神や各種相性の一致が必要となり入手難易度が極めて高いのだろう。半年くらいは脳のバグによってこの錯覚を維持できるとされているみたいだが、これを恒常的なものにするのにはフロムの言うような技術が必要なのだろう。
世の中には色々な条件があるわけだが、私的には「相手のために(無理のない範囲で)何かをしてあげる」「少し無理をして相手のために何かをしてあげる」という条件で得点を稼ぐ戦略はあまり良いものだとは思わない。無論「自分の幸せのために相手を使う」という戦略も賢明とは言えないだろう。どちらかというと、「自分がやってて楽しいことAをしていれば相手が幸せになる」という戦略の方が好ましいと思っている。というのもこれは、環境トップの「相手の幸せが即自分の幸せだと感じるループ」に繋がりやすく、なんとかしてループに入れ込むことが一番おもしろいと思うからだ。
ここまでをまとめると、愛というゲームは「自分がやっていて幸せだと感じることをするだけで相手の幸せが増える」「相手の幸せを自分の幸せだと感じる」といった類の条件をどれだけかき集められるかで勝負が決まる。非常に複雑な話であり、相性のようなものを無視することはできないため、一概に個別具体的なことを言い切れないが、いずれにせよ自己理解を深めることが自分の中にある条件を明らかにすることにつながるのは間違いないだろう。
我ながら高尚なことを説いているなあと思う。ただし、この定義で愛を考えようとすると、はじめに自分と他人を同一化することが必要となってくる。これには大いなる危険を伴う。人は死から逃れることができないし、愛するものとの別れはいつの時代でも普遍的に訪れる。愛とは、そのようなリスクを背負い込んでまで欲するようなものなのだろうかというところには一考の余地がある。愛をしたいという欲求を持つこと自体がリスクであるのは間違いがない。
一つの解決策として、愛というものをローグライトゲームだと捉えることが考えられる。得点の積を最大化することを目的としたゲームをプレイしてみて、うまくいけばクリアおめでとう、うまくいかなければ新しいゲームを始めてみようというような向き合い方で挑む話だ。複数回遊ぶということを前提としたローグライトゲームのようなプロジェクトだと考えて、基本的には複数回のプレイによってのみ攻略が可能なものだと考えると、チームで協力して積の値を拡大していくように頑張ることができるのではないだろうか。しかし現代社会でこのスタンスでやっていくことは、なかなか難易度が高いような気がしている。構造上何度もゲームをぶん回す必要があるということを知覚しながら、同時に他者との同一化をはかることにはそもそも無理がある。おっ二重思考か?
私の個別具体的な条件についても軽く言及しておこう。私は、先日述べたような「熊楠脳」の肯定を間違いなく求めており、自分のたどたどしい(←多動を表す副詞)熊楠脳に無理な負荷をかけずにできる活動が私個人の絶対的な幸せである。そのような活動をすることが相手の幸せに繋がるような条件をどこかから拾ってこれれば、おそらく充実できる。また、自分がめんどくさくてあまりやりたくないことであっても、相手がやりたがっているという理由で無理やり自分の低負荷活動に紐付ける動機を設定でき、ある程度の範囲であれば無理やりシステムを組むことができる。やりたくないことを乗り越える動機として、愛というのは大きな駆動力たり得るなあなどと思ったことがあったりなかったり(ぼんやり)。しかしそれがうまく機能するのも、やはり「自分が幸せだと思うことをやっていたら相手も幸せになる」とか「自分の幸せが即相手の幸せだと感じる」といった条件が満たされていることが前提であり、それは高尚な愛の上にしか成り立たなくてウケるなあなどと考えている。
私の理想が高尚すぎるだけかもしれないが、過酷すぎて全身がSlay the Spireになってしまった。ハートを射止めることをA20H攻略と表現するのやめろ。
結局自分は本質から逆算して行動を決めること「しか」できないなあと思った。というかそれが人より得意だからやってるだけだしやるしかないんですけど。

