・人参と麻薬(続き)
結局人々は多かれ少なかれ、誰かの作為によって作られた欲求をもとに駆動しているらしい。
私はそれが本当にアホくさいと思っている。なぜならばそのような欲求を突き詰めていった先に幸せがあるとは思えないからだ。いつまで経っても人を出し抜く競争の世界に囚われていては、他者との比較が終わることがなく、勝っても負けても胃もたれするだけだ。
嘘SDGs: 評価軸を外部に持つのをやめよう
私は運がいいことに知的好奇心や創造欲求などの内的欲求で活動すれば、いつまで経っても幸せを感じることができる。
なので基本的には何人たりとも私のことを邪魔しないでいただきたいのですが、一応社会と接続しておいた方が色々楽かなあなどというのを考えている。お金とかいうよくわからないものが十分にあれば、なんと夜行バスではなく新幹線を使えて、あろうことか、早く快適に移動できるらしい(驚きの声)。早く移動することに価値があるかというと相当怪しいが、快適に移動すればその分脳のリソースを温存できて自分がやってて楽しいことに割ける時間が増える。
社会をメタって、自分は社会的になんかやってるもんね〜〜〜(えへへ)みたいなフリをしておくのが中庸でありよろしい。
・共同体
私にとっては、自分の内的欲求を追求し続けることが最も楽しいと感じているんだけども、どうやら社会ともある程度の接点を持った方がいいらしい。しかし、社会と接点を持つにしても、今の社会で推奨されるような方法にはどうしても無理があるように思う。というよりも、一般的な方法を用いて社会をやっている人々のうち、幸せな人を(オモコロ界隈を除いて)見たことがない。私は今のところ、共同体への貢献を目標に置くことが社会接続における無理のないヘルシーな方法だと考えている。それを実現するためであればおじさん頑張っちゃうぞ〜という気概がある。
私が思うに、アドラーおじの言うところの共同体感覚を維持し続けることが、最もヘルシーで無理のない人生だと思う。共同体感覚は、自分が社会や他者とのつながりを感じ、その中で「居場所がある」と感じる感覚のことを指す。
ホモサピエンスは、数百万年ほどウホウホ狩猟採集をしていた。狩猟採集の環境下で、子孫を残すことができる形質につながる形質が、遺伝子の淘汰選別の過程を経て選択されてきた。しかしここ一万年ほどで、人間は急にウホウホをやめ農耕社会へと変遷した。
というわけで狩猟採集社会の淘汰の過程で選択されてきた性質について考えよう。
ウホウホが煮詰まってくると、一人で行動するよりも、ある程度の規模の集団で行動した方が成果が出るようになった。「どういう条件であればどこにどのような食べ物があるか」などの知恵を口伝で継承し続けられた集団は個人や他の集団に比べて生存に有利に働くだろう。マンモスの狩りにしても、集団で行った方が一人で行動するよりも期待値は高い。そう考えると、集団を維持し続けて知恵を継承し、他者と協力できるような形質を持った個体の遺伝子が複製されるわけだ。
というわけで我々ホモサピエンスは、集団を維持していくのに最適化された形質を有しているはずだ。長い期間にわたって、その集団を構成する人間の数はダンバー数以内に収まっていたと考えられている。おそらく150人を超えた途端、集団をまとめる力は機能しなくなるだろう。
そして、ほんの7万年前くらいに、認知革命が起き、皆で同じ虚構を信じることで大きな集団を維持することが可能になった(参考:『サピエンス全史』)。そしてほんの1万年前くらいに農耕社会が始まって、非常に大きな人数で構成された社会の中で生きるようになった。そんなこんなで所有の概念が生まれ、我々は階級や格差を前提とした虚構を信じて生活するようになった。
・進化生物学っぽい(エアプ)欲求の分類
つまり、我々の欲求は大きく3つに分類されている。
①ウホウホ狩猟採集社会以前に形成された、生命体を維持して遺伝子を複製させていくために獲得された形質に由来する欲求
・遺伝子の乗り物である生命を維持する動機となるような欲求(危機を感じた時にそれを回避するような動機になるような欲求)
ex)眠くなったら寝る 遊びたくて遊ぶ お腹が空いたらご飯を食べる 痛かったら大声で叫んでママを呼ぶ
・遺伝子を残す動機になるような欲求
ex2)遺伝子が残せそうだと感じた時に何らかの気持ちが働く
②ウホウホ狩猟採集社会に形成された、ウホウホ狩猟採集をしていくために獲得された形質に由来する欲求
・ダンバー数以下の人間同士が結束して生活できていた個体から受け継がれた形質
ex)共同体への貢献で気持ちよくなる 共同体から弾かれないことに安心を覚える 周りと同じことをしたくなる
cf)共同体感覚(アドラー)/模倣の欲望(ジラール)
③農耕定住社会に形成された、格差と階級を前提とした社会を潤滑するように設定された欲求(認知革命により獲得した虚構を信じて行動や欲求を設定する能力に基づく)
・それ以外の全て
・共同体感覚の解体
けだし、②の時代に獲得したであろう形質「共同体への貢献で幸せを感じるような仕組み」に順張りした生活を組むのが望ましい。
アドラーおぢの述べる共同体感覚の概念を解体してみよう。狩猟民族時代の共同体において、「個人が何か成果を上げる→みんなに褒められて承認欲求を満たされる→その成果物をみんなで共有する」という一連の流れを行うことで幸福になるような形質を持った個体が生き残りやすかったと考えることができる。しかし、所有の概念が定まってしまった現代においては、個人が何かを成果を上げたとしても、みんなに褒められて承認欲求を満たされたいと思い自慢した後に利益を総取りする。
さらに共同体において抜け駆けして利益を独占するような個体が存在するとその共同体の秩序は怪しくなり、共同体の崩壊は生存を脅かすため、利益を独占するような個体を排除したくなるような形質(シャーデンフロイデや公正世界仮説など)を獲得したと捉えることができる。これらは本来150人以下の集団の環境で働いていた感情であるが社会集団が大きくなりすぎてもなおこの形質は維持され続けていると考えられ、そうだとすると全方位に対してこのような感情を向け続けたまま生きることになる。
これらの形質に所有の概念が加わることで、我々はどうしようもない地獄に陥る。
「個人が何か成果を上げる→みんなに褒められて承認欲求を満たされたいと思い自慢した後に利益を総取りする→みんなからは妬まれ嫉まれ叩かれる」という最悪の流れが発生している。承認欲求そのものは原始的反応であり、SNSで生活や金回り、センス等を自慢しいいねを獲得することから逃れることはできない。
所有の概念が当たり前になり、「承認→皆で共有」のセットが壊されてしまった現代は地獄である。我々には承認欲求を止める術がない。にも関わらず、承認されるために自慢をすれば、抜け駆けする個体を排除しようとする力が我々に働く。
でも承認欲求やめらんねえんだけどwwwwwwwwwwwwww
下の小林武彦氏の解釈が非常にわかりやすい。
さて、承認欲求にまつわる現代のバグから逃れるための方法は、共同体に属して内部のメンバーで成果物を共有しあうことしかないと考えている。濃密な共同体であるところの寮などで活動をしていれば、共同体感覚で得られる嬉しさを想像することは容易いと思うが、どうも令和の人間の多くはこの嬉しさを体験することないまま一生を終えていくのではないかという懸念がある。(多分続く)
・ボツ
比較だとか承認だとか競争だとか見栄だとか、そんなつまらないことをしていては短い人生はすぐに終わってしまうセネカよ。そんなものを追い求めても終わりがないですし、どこで切り上げるんですか?何が目的なんですか?
何十年もの間社会に君臨し、王にもなれず、何も得ず しまいにゃしまいにゃバカ息子 エースという名のバカ息子人生空虚じゃありゃせんか?実に空虚じゃありゃせんか?
>やめやめろ(ボッ)
よせ!乗るな!エース!
>俺を救ってれた人をバカにすんじゃねえ!!
>オヤジは俺に生き場所くれた 白ひげ海賊大海賊だ
というわけですよ。彼は理想のために死ねて、さぞ幸せだったのだろうと思います。また白ひげも、自分のとこの共同体のメンツのために最後まで行動できて、非常にいい人生だったのだろうと考えています。
ね、わかりますか(わかりませんでした)

