・仕組みについて
経済的に豊かであることに全くもって興味がないし、貨幣に変換可能な生産物を産むことにも興味がない。
じゃあとっとと仕組みを作ればいいじゃないかと思うのだが、これがなかなか難しいので今からパッと達成できる気がしていない。
仕組みを作るのが難しいとなると、経済的基盤を作るために仕組み理解能力が活きる仕事をするか(やだな〜)という感じがある。正直ベースで話させていただくと、本当に嫌だし何のやる気もない。駄々とかこねていい?いいよ
ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ
・仕組みを作れない理由
仕組みを作って全ての煩雑から逃れたい。しかし仕組みを作れる気がしていない。なぜ仕組みを今作れないのか考えてみよう。
今パッと仕組みを作れないということは、仕組みを作るのに必要な能力のうちの何らかが欠けていると考えるのが自然だ。それが何かについて考えるしかない。
多分自分は仕組みの理解力だけでいくと”舞える”と自認している。でも現状仕組みの構築ができていない以上、①仕組みを作るためには仕組みの理解力以外の何かが必要か、②自分の今の”舞い”の水準が一定に達していないかのいずれかだ。
②について考えたら悲しくなっちゃうから、①について考えよう。つまり、仕組みを作るのに必要な何らかの要素が欠けていると仮定する。
仕組みの理解能力とは別に、もう一つか二つくらいの何らかの能力が必要なのかもしれない。
「観察・情報収集能力/設計・構造化能力/実験・検証能力」らしい。
これらが自分に備わってないとは思わない。強いてないものを挙げるとするならやる気だろうか。うおおおおお。
よくわからなくなったので、仕組み理解以外の何らかの能力が欠けているという線を一旦保留する。
・専門性のアンチ
仕組み仕組みと言い続けているが、自分が多分向いているのは、一つの分野に絞ってその仕組みを追求していくということではなく、分野を特に絞らずに構造や仕組みを理解してあとは流れで組み合わせるようなことなのだろうと思った。だから、おそらく分野を気にせず適当に仕組みで遊んで何かを作るというようなことをしないといけないんですよね。
しかし、今の時代求められるのはやはり専門性で、しっかりした専門性を持った人間が重宝されるような社会も逆風なのだろう。博物学全盛期に生まれたかった。結局何らかの専門性を極めた現場上がりの人間が歳をとって総合的な判断を下す仕事に就くルートが一般的なように思える。専門性を持たない人間は相当肩身が狭いような印象がある。仕組みの専門家とかを名乗るか。
(ハンネ)@仕組みバスター
仕組みの専門家/世の中の仕組みを解き明かしてます/仕組みが友達/8500個の仕組み経験あり/お仕事はDMまで
んは〜。結局分野の垣根を超えて仕組みを組み合わせてどうにかするというのがイメージできていない。何かを始めたらその分野に骨を埋めることになってしまうような気がしている。他の分野の選択肢の刈り込みを怖がっているような気がしている。
結局のところ、提示される未来に分野横断性がないのが悪い。その分野の専門家になるのが基本的な未来で、めちゃくちゃ運が良かったとしても商売の意思決定をする役員になったところで人生が終了だ。
俺の人生の先に分野横断性をチラつかせてくれ。なあ。頼むから。
分野横断的にイノベーションを起こしましょうと喧伝する人間はそういえばいる気もする。でもどうも胡散臭いから、そういう人たちのことを信用していないだけかもしれない。
何にせよ、出口に分野を問わない感じの何か(曖昧)を用意しないといけないということがわかりました。じゃないと専門性に突っ込んでいく踏ん切りがつかない。「分野を問わない感じの何か」ってなんだろう。
何らかの分野に身を投じることそのものを嫌がっているわけではなくて、一度何らかの分野に身を投じたらその分野から帰って来れなくなることを多分怖がっている。間違いないね。専門性から帰ってこれるなら自分専門性やります!やらせてください!
・まとめ
役員になって多額の報酬を貰いたい
・幸せについて(続き)
こないだ幸せがどうこうという怪談を書いたが、もうちょっとまとめようと思う。
根源的な生理的欲求の充足を無視して考えると全ての理想は本来存在しないはず。ここでいう根源的な生理的欲求とは、寝たい・食べたい・動きたくない・仲間はずれになりたくない・安心したい・痛くないのがいい・創りたい・破壊したいといったプリミティブな欲求だけで溢れかえるはず。
にも関わらず現代に生きる人間はややこしい要らん理想を持ちすぎている。これらは何者かによって(生理的欲求をハックされるなどして)論理をいつの間にか植え付けられたと捉える方が自然。よくわからない論理にいつの間にか寄生され、ある理想に目掛けて努力している間が幸せだと感じるらしい。カマキリみたいでウケるよね。
さて、人の幸せを願うのであれば、その人の掲げる理想に近づくような何らかの手助けをするのがいいのかもしれない。
しかし掲げる理想が有毒だった場合、すなわち理想に近づくと身を滅ぼすことが明白な場合、第三者は手助けをすべきだろうか。ほとんどの人は、理想の持つ有毒性を正しく評価することができないまま、自分の理想を自由意志(笑)によって選択しなければならない。極端な例を挙げると、宗教団体に献金することで苦しみから逃れたいという理想を掲げる人間がいたとして、その理想に近づく手助けをするべきだろうか。
理想への接近が毒であることが明白な場合、そいつの幸せを真に願うのであれば理想を変容させるような介入をするのがいいのかもしれない。しかし同時に、理想を書き換える行為は劇薬である。書き換えた後の理想を追い求めさせることはそいつにとって”良いこと”なのだろうか。理想の書き換えに責任を持てるのだろうか。
掲げる理想が明白に毒だと言い切れるのであれば話が早い。無理矢理にでも毒から遠ざけるという選択はそこまで責められるものではない。しかし、世の中の大半の理想は、毒と薬の二面性を持つ。そうなるともう何が正解なのかわからなくなる。そこまで考えると、理想を応援するフリをするという穏当な仕草が最適解に落ち着くのではないだろうか。
この考え方だと、人が幸せになるのは難しいように思う。絶対的な理想がほとんど存在しない世の中で、理想を追い求め続けることが幸せなのだとすると、こんな酷い話はないだろう。死の直前まで理想を信じ続けて「殉教」するのが幸せなのだろうか。
こういうのを踏まえて、逆に、どうすればいいのかを考えてみる
・理想は常に揺らぐものであることを理解して付き合っていく
・人によって理想が異なることを理解する
・複数の理想でポートフォリオを組み、リスクを分散させる
・極端に難易度の低い理想を持ちつづける
・どういう状態であっても実現し続けられそうなゆるい理想を選択する
・内的欲求に素直に従う
・色々な価値観に触れることで、メタのレイヤーから世界を俯瞰できるようにする
・絶対的に正しい理想は滅多にないことを受け入れる
まあこんなところでしょうかね。理想はファミコンのカセットみたいなものだと思って、時と場合によって適当に入れ替えていくのがいいんじゃないでしょうかね。たまーに絶対的っぽい理想に出会えるかもしれないのでその時はラッキーだと思うのがいいんじゃないですかね。まあそれも高確率で嘘ですけど。
尽きることのない内的欲求(生理的欲求も含む)に依拠して理想を設定すると、ハシゴを外されにくくていいんじゃないですか。ご飯をたくさん食べてたくさん寝る!むにゃあ!