のたくった文章2

のたくった文章2

よ~し、書いちゃうぞ~

オタクが人気者になれない理由 by Paul Graham

模倣と独立 by 夏目漱石

↑以上の二文章を前提にして書く

現代の主流ってか、先進国で常識的に通用しているイデオロギーとして、民主主義と市場経済ってのがある、このどちらもひそかに前提にしているのは、適者生存・優勝劣敗の考え方だ。

国民の代表を選挙で選ぶことで、 よい議員だけを選べ、よくない議員を落とすことができる。そして、どんな議員がよい議員なのか、ということは先験的には把握し得ないし、政治的立場によって異なるため、よい議員のあり方を敢えて明示的に言挙げしないで、ただ、その国民の代表が現れてくるプロセスをこそ明示的に透明に定義する。というのが議会制民主主義の奇妙な特徴だ。

市場経済もそうだ。定まった計画を立てずに、神の見えざる手というか、市場の個々の参加者が主体的に行動することによって、よい企業は成長し、わるい企業は市場から退出する。最終的に富の最適に近い配分が完成するという考え方だ。

このどちらも、ある種のダーウィニズム、進化論を密かに前提としている。それはあまりにも常識的であるため、いまさら言挙げされることは少ないが、やはりそうであるように私には思える。

しかし、この俗流「進化論」に批判を加えたい。それはありきたりのリベラルの新自由主義批判に見られるような、現代社会はもっと「やさしい」社会になるべきだ、ということではない。いや、個人的にはもっと「やさしい」社会になるべきだとは思うが、それで現代社会批判をするのはスジが悪いだろう。

というのも、harshな現代社会で「成功者」となるには、というか周りから「成功者」と見做されるペルソナを身につけるには、東洋的なgenerousityというよりもむしろ自分自身もまた社会に合わせてharshな、”エリサラ”的な振る舞いを身につけなければならないのであって、それは「やさしさ」とかいうネトネトした土臭いものからは遠く離れたものであるからだ。つまり、そのような状況下で「やさしさ」を言っても世間からは俗流ニーチェ主義的にルサンチマンから発する奴隷道徳であると一笑に付されてしまうからだ。

さらに、これはただの悪口だけど、ありきたりなリベラルは「やさしい」社会を「同情」とか「惻隠の情」とかをベースに構築しようとするけど、これらは、全くのプリミティブな感情であって、結局のところ誰が可哀想か、誰に共感・感情移入できるか、みたいな見た目やそれこそ「アテンション・エコノミー(配慮の分配)」の問題、つまり美人コンテストを退治するために美人コンテストを開いているもんなので、あんまししゃ~ないんじゃないか?

金持ちしかいかない現代芸術展ではマイノリティ性を活かしたアートが売れるけど、モールにくっついてるシネコンとかだとセレブの体験ができたほうがウケいいみたいなのもあるよな。大衆は概ね「成功者」の言う事を聞くし「成功者」になりたがってる、ということ。

そんなharshな現実認識・絶望から始めるなら、現代社会をいい感じの状態に持ってくためには、「成功者」を退治するために対峙する概念「やさしさ」「愛」「癒やし」みたいなのをぶつけてもしゃ~ない。というか、人という漢字のように2つの対立する概念によって、harshな現代社会が自立しているともいえるだろう。おじさんが風俗を使い、風俗嬢がホストを使い、ホストは、、、というループによって経済が回っている。マルクスでいえば宗教は大衆のアヘンというやつか。

んで、イメージレベルでの対症療法としては、「成功者」への憧れを止めること。さもなくば大衆から「成功者」が再生産され続けるし、社会構造それ自体は変わらない。前回の文章で西洋的なセレブから東洋的な文人へ、SDGsからすげえジジイsへとの価値転換を図るべきだと論じたが、まあこのことです。

んで、理屈レベルでの根本療法としては、「成功者」そのものの自信を支えてる「成功」ということ、その成功/失敗を測る評価軸それ自体がワヤであることを指摘することだ。その意味で、私は俗流「進化論」を批判するんである。

やってみよう。

ここにきて、ようやっとこの文章(オタクが人気者になれない理由)を導入する。この文章の骨子は現代における学校とは、産業が高度化して経済的に無用になったティーンエイジャーを強制的閉じ込めておくための施設であって、そこで行われているのは学問のママゴトであり、そこで人間社会の常として生徒間に発生する階層は、フットボールチームなどのようなリアルな目的、そこから導き出されるリアルな実力に基づいているものではなく、もはや単なる人気投票の結果でしかない。そして、オタク(nerd)は学校の外部のリアルな目標に興味があるから、そのような人気投票では敗れざるを得ない。しかし、実社会では人気取りのやり方ではなく、nerdの問題解決能力こそが役に立つ。といったところだ。

しかし、私にはそうは思われない。

ちょっと眠たくなってきたから端折っていえば、その根拠は、第三次産業、感情労働が増大したことと、現代の投資はつまるところ人気投票だという2点だ。

つまり、現在の高度化した資本主義社会はリアルな物質的制約よりも、単純な性能によるモノ消費よりも、イマジナリーな消費者の欲望へと、口コミや広告によるコト消費へと、その重心を移してしまったのではないか、文明が爛熟したせいで、貴族化、つまり社会全体が中学校のクラスのような人気者がなんでも取り仕切る社会になっているのではないだろうか?ということだ。

そしてそのような市場、投票行動も一個の市場だ、そういった人工市場は、リアルな価値(それはどこにあるんだろうか、まぁマルクスに倣って使用価値としてもいいか)を離れて、イマジナリーな交換価値に基づいて駆動している。

つまり、「成功者」の「成功」も人気投票の結果に過ぎず、リアルな実力からは離れているんじゃないか。そして、そのような事態が続くと、もし宇宙人が攻め込んできたとき対処できないゾ。ということだ。外患じゃなくて内憂の話をすれば、地球温暖化を食い止められないゾということだ。

私達は孔雀の羽の競争をしてしまっているのではないだろうか。再帰的な人工環境へと、進化の袋小路に入ってるんじゃないの?

ここで模倣と独立を導入する。

欲望は、他者の欲望である と言ったのはラカンであり、コジェーヴであり、ヘーゲルだが、みんなが人まねをするようになったら、自己再帰的な閉回路ができてしまって、発散する。

しかも、皆が同じような思考しかしなくなったら、文明にストックされているアイデアの数が減ってしまい、危機に対応できなくなってしまう。

なんで、ミクロで「成功者」になるためには「模倣」が最適解なのかもしれないが、マクロで「成功文明」になるためには個々人の「独立」こそが肝要だろう。

しかし、それをどうやって涵養するのか。普通、人はヒトと同じことをしたがるものであって、どこかに所属したがるものであって、人と違ったものを求めようとはしない。

アイデアマンが評価される社会とはどのようなものか。アイデアが続々と生まれるような社会・組織はどのようなものか。それでいて、社会的紐帯が壊れていない社会・組織とはどのようなものか。これこそが、今考えるべきものでは?

アイデアはいつどうやって生産されるのか?どうやったら効率よくアイデアが出てくるのか?しかし効率化とアイデア湧出は背反では?みたいなことだ

私はいちハイデガー好きとして、答えは散歩あたりにあるんじゃないかと思う。目的地への最短ルートでも、目的地をまるきり決めないというのでもない、散歩こそが、存在するものへの注意深い観察へと人を向かわせるのである。みたいな

目的地への最短ルートをとる「成功者」のやり方も不毛なら、目的地を決めないランダムウォークというのも不毛だ。

つーわけで、私は散歩史観に独り立つんである。(それはどこ?)

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