20250913日記 #13 あ〜なるほどそういうことね社会完全に理解した

20250913日記 #13 あ〜なるほどそういうことね社会完全に理解した

・感情について

理屈お化けすぎて(本当?)、自分の感情をある程度自覚することができるようになってしまった(本当?)。正確にいうと、「自分は感情動いているなあと思いながらも、ある程度理性的に振る舞おうとするも、感情の制御が難しくて精神的に厳しくなる」状況に陥る。

 

 

感情に流されて行動をするのはアホらしいと思う。でも自分の中には確実に感情の湧出があって、それが理性とたたかって合理的(と思しき)判断をブラす要因になりうる。であれば、「文明人であるからには、理性や合理によって感情を制圧すべき」などと意固地を張るべきではないよなあと思っている。つまり、これまでは合理性の全体像が微妙によく分かっていない状態で、(でも感情で動くのはキモいよなあ)みたいに感じていたわけだ。それは非常に不安定だったんだろうなあなど思った。改善していこう

 

 

基本的には理性や合理によって活動するのが望ましいと考えているが、感情の存在は自然淘汰の過程で獲得した形質として極めて合理的な(!)事実なわけである。感情を完全に無視したり、合理の刃で感情をスパスパ切り捨てることで感情の動きを抑圧するのもまた大変だから、ある程度は自分の感情によって生じる欲求をありのままに受け入れて満たしてあげる方がヘルシーな生き方ではないかなあなどと思った。いやそりゃそうなんやけど(イマサラタウン)。

 

感情を大事にしてあげて、自分の脳みその負荷を上手にコントロールしつつ、無理なくやっていけるようにしたいですね〜などと思った

 

しかし警部、全ての合理性を分かった上である程度感情の面倒を見てあげることはいいことだとしても、合理性がわかっていない状態で感情優先で決定された振る舞いは良くないのではないですか(←ここが本質)。全ての合理性がわかるまでの間、比較的理性的な規範に則って自律するのって大変だと思いますわね。

 

 

・社会完全に理解した

社会を完全に理解しました。

我々が抱く欲求は、大きく二つに別けて考えることができる。生物学的本能+狩猟採集時代の淘汰選別過程で形成された内的欲求と、農耕社会以降の所有と階級が存在する世界でハックされた外的欲求である。前者は非常にオーガニックでヘルシーなものである一方、後者は誰か設計者が(階級構造を維持するための方便として)(本来備わる欲求をハックするようにして)作った仕組みであるためジャンキーであり胃もたれを起こす。

 

私は、後者の欲求の裏に隠された作為の影を早い段階から(中学生くらい?)勘づいていた。全体像が見えていたわけではないが、だからこそチラチラ見え隠れする作為に対して得体の知れない恐怖を感じていたおり、それらの欲求を盲目的に信じることができなかった。世の多くの人は人生のどこかの段階で社会的欲求を目標に据え、人参をぶら下げた馬のようにして人生を駆けていくようだが、私はそれが一度もできなかった。私が欲求に据えることができたものは基本的には知的好奇心のみであり、そのため社会的欲求に基づいて行動する人々の気持ちがミジン(コの鞭毛ほど)も理解できなかった。

つまり、怪しげな作為に塗れた社会的欲求に従うよりも、時折湧き上がる内的な興奮をを追い求めたいという欲求の方が圧倒的に強かったわけである。最近まで内的興奮の発動要件がよく分かっていなかったが、要は知的興奮さえ引き起こせたらそれでいいのである。

 

そんなわけで、私はこれまで社会に対して大体二つの恐怖を抱いていた。

一つ目は、作為に塗れた社会的な欲求で駆動していく人々が全く理解できなかったことである。どういうプロトコルなんだ??

私はなんらかの知的活動をした時に得られる興奮にのみ興味があり、誰かの作為によって作られた社会的欲求に沿ってなんらかの活動をするというストーリーを一つも受け入れることができず、常にウーン(ぐにゃあ)と感じていた。

社会という掴みどころのない構造体、そしてそれによって行動する人々のことが、これまですごく怖かった。同じ人間のはずなのに、自分には到底理解できない論理で人々の行動が規定されており、それがあまりにも理解不能であった。自分は皆と同じように社会的論理を適応できない理由もわからないし、無為な活動に人生を注ぐ意味も全く理解できなかったし、にも関わらず実態のない社会とはなんらかの折り合いをつけなければならないらしく、人々についていけずに置いてきぼりになっている状態も意味不明すぎてワロリンチョだった。ある意味で孤独であり、恐怖に怯える日々であったと言えるだろう。

 

二つ目に怖かったのが、人間の二面性である。

人間と個別で話していると、温かみがあって優しくて人のことを気遣ってくれてよくしてくれる。世界はハッピーでピースフルであり、多くの人は性善説や利他性に基づいて行動するし、何かを共有することの喜びを分かち合うことができるんじゃないかという印象を持っている。しかし、一度社会というフィルターを通した人間からは温かみが消え、利己的なことばっか言ってるし、自分が良ければいいという思想をしており、何かを分け与えることもしないし、すごい嫌なやつになる。そう感じていた。しかも同じ人間がこれらの二面性を持ち合わせており、さっきまで慈愛に満ち溢れていたはずの人間が急に嫌な振る舞いをし始めたりする。この事実が気味が悪かった。理由や原因もよくわからないため、私が見る世界の車窓には常にこのドロっとした何かがへばりついていた。

 

 

最近社会を完全に理解したので、これら二つの違和感や恐怖に対する説明がつくようになった。よかったですね。

 

まず前提として、今の社会は顔をあわせる人間の数がダンバー数を超えている以上、色々無理がある。構成員の数がクソデカな社会を維持するのは基本的に不可能と言ってもいい。ホモサピエンスの能力ではできないことをやらされているので、至る所に歪や限界が存在せざるを得ない。

 

社会とは一つの大きな構造であり、個々の人間は社会という有機体を構成する細胞にすぎない。基本的に細胞に意志はなく、自由意志という建前の元で、社会という構造を維持していくための規範を無意識のうちに学校や家庭で植え付けられる。その規範(虚構)を信じて、自由意志に基づく行動だと思い込んで社会という構造を維持する細胞としての役割を果たし、老い、そして死ぬ。

 

さて、多くの人は、社会に対するえもしれぬ恐怖を抱いているのだろう。それはもしかしたら、かつての私が抱いていたような不安や恐怖と同質なものなのかもしれない。そのような不安・恐怖を手近に解消するためのツールとして、手近な欲求が至る所に提供されている。無論、世界の真理を理解することができればニルヴァーナの境地に近づけ、多くの欲求が滅されるのかもしれないが、在家の人間が特に今の社会で涅槃に達するのはなかなか難しい。地下労働の後にビールを流し込むことで欲望を解放するしか残されていないのだろう。社会のアウトサイダーになって俯瞰して考えるとかをやらないと、忙しいから間に合わないと思う。結局は人を規定するのは社会構造であるのだなあなどと思うわけですわ。無意識のうちに社会の細胞として振る舞うように行動が規定されているわけで、酷い話だと思いませんか?

 

また、社会をやっている人間のうち一定の割合で全てを理解したうえであえてやっている人もいるのだろう。無論よくわからず不安と闘いながらも一時的に欲求を満たすことで明日の労働力を再生産し続けている人もいるだろう。当然グラデーションであり、その間にいる人が無数に存在するのだろう。なにこれ怖いよ〜〜〜

 

なお今も社会的欲求に紐づくストーリーを受け入れられていないし、今後受け入れるつもりもない。そのためスタンスはなんも変わりはない。ただ、社会の全てを理解しただけだ。俺が社会に向いてないのが悪いんじゃなくて、俺の向いてる方向に社会がないのが悪い。極力自分の内的興奮を重視して生きて行くしかないなあなどと思っています

 

 

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