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「学問の自由と大学の自治について」によせて

「学問の自由と大学の自治について」によせて
書いたひと: COLOR pencils

「学問の自由と大学の自治について」によせて

 

はじめまして、こんにちは。

わたしくし、総合人間学部9回生、十戒真手子(じっかいまてこ)と申します。学部では、9回生の会代表をやらせていただいています。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

今回は、千万遍石垣のウェブサイトに掲載されていた「学問の自由と大学の自治について」の記事によせて、いくつか、質問と、より深められる議論について、思ったことがあったので、このように、お手紙を書かせていただきました。

少しばかり、長くなるかもしれませんが、どうぞ、最後までお目を通していただけたらと思います。

まず、最初に申しておかなければならないこととしては、このように、大学の内部から大学の在り方についての議論がでてくるということは、大変すばらしいことだいうことです。

自分の所属する組織に対して批判意識があるからこそ、その組織は成長していくことができます。

この記事を書いた京都大学東京大学同好会の会長の方のように、私も大学に所属する身として、大学の自治や自由について考え、なにがしかの行動を起こす事が必要であると、改めて感じさせていただきました。どうも、ありとうございます。

 

さて、次からは、内容について見ていきましょう。

まず、今回の記事では、「学問の自由」が、憲法や教育法による引用によって定義づけされていました。

そのこと自体は、特段、悪いというわけではありませんし、学問の世界ではこのようなやり方(引用して定義づけすること)は一般的にとられる方法ではあるとも存知じております。

しかしながら、わたくし個人的には、それだけでは、満足できないものを感じました。

なぜなら、憲法や法律といえども、人間が考えたものであるからです。もちろん、憲法や法律ともなりますと、数多くの議論や時代の堆積によって構成され、更新されてきた信頼たるものでもありましょうが、それをそのまま、憲法の持つ物語を顧みずに引用するとなると、一種の思考停止状態を感じてしまうのです。

少し幼稚なたとえでありますが、根拠を示すとき子どもが「だってあの子もそうだもん」というようなのと同じ匂いということです。

引用する際に大切なのは、そのものが持つ権威の高さではなく、それを作ってきた人と対話しながら、自らの考える「学問の自由」についてを見出すことではないでしょうか?

今回の文でありますと、現在時点の体制批判のみが述べられており、その根幹にある、語り手自身の考えが書かれていなかったので、物足りなさを感じたというのが、正直な感想でございました。

これは、「大学の自治」についても言えることでありましょう。

しかしながら、今回の記事は、まだ大学に入学していない学生たちにむけて、少しでも大学の自由について考えてもらいたいという志のもと、書かれていましたので、色々とわかりやすくした結果、このような文章になったのでしょう。

わたくしの実際の体験談で申し訳ないのですが、社会への将来や在り方について考えないうちに現在の体制批判をした時、その中で生きている人達からは子供扱いされてしまうということがありましたので、わたくしも、会長さんはそこの所もすでに考えているだろうとは了承しながらも、このように自分の意見を述べさせていただきました。

ぜひ、次回には、さらに掘り下げた議論をしていただけることを期待しております。

 

さて、今のは、記事全体に対しての感想だったのですが、次はもう少し細かい所で気になったところを申し上げたいと思います。

まず、一つ目に気になったところとして、大学の求める成果について述べられている部分です。

以前はこの判断の難しさを肯定した上で全ての学問の価値は等しいとされてきました。ですが今「成果」というのは何年以内にどれくらいのお金になるかどうかという点で主に評価されるようになりました。

この、以前はすべての学問の価値は等しいとされてきました、というのは、具体的にはどのようなことをいうのでしょうか?

もし、学問を分野という捉え方をしてみるならば、そもそも、分野の価値を等しくすることは本当に現実にありうることなのでしょうか?

時代時代により、学問にも流行があります。時代の流れで消えていく学問もあります。それは、宗教とも同じことがいえるでしょうけれど、「すべての学問の価値が等しい」とされる時代があったのならば、それはどのような時代なのでしょうか?

「すべての人間の価値は平等である」ということが言われながらも、現実にはそれとは程遠い人間格差が生じているのと同じように、「すべての学問の価値は等しい」ということが言われながらも、学問の分野によって予算や規模の格差が生まれるのは、これからもこれまでもずっと続くことなのではないかと、わたくしは考えています。

しかし、それでは、現在の状態をやみくもに肯定し、理想を諦める態度になってしまいます。わたくしが一番申し上げたいのは、制度の話ではなく、個人個人のもつ心のありようです。

現実問題、「役に立つ」学問分野が、予算を提供している国から優遇されることは自然なことでありますから仕方がないことでありますが、その制度のありように自分自身の心のありようも奪われてはいけません。精神上では「すべての学問の価値は等しい」という信念のもと、学問と向き合っていかなければならないと思います。

その精神上の信念を行動に移す具体的な案としては、様々な学問にスポットライトをあてる雑誌を大学が発行することや、様々な学問分野の専門同士が対話する場所を提供することなどがあげられましょう。京都大学でも、そのような取り組みはすでにされているようですので、そういうものに着目するのも、面白いかもしれませんね。

http://www.cpier.kyoto-u.ac.jp/(京都大学 学際融合教育研究推進センターホームページ)

参考までURLを上げさせていただきます。

話は少し変わりますけれど、わたくしが、こうして文章を書いて気が付いたこととしては、体制について真っ向から批判し、現状改善に乗り出す方こそ、体制側の方と同じエネルギーと仲間意識を持てるのではないかということです。

わたくしのように、ただ、インターネットにあげられたいた記事に対して、意見をのべるだけの人間は、一見、体制側、体制批判側、どちらかの味方になっているようにみえますけれど、実は、両方の方々とも、本当に向き合うのが難しいのは、わたくしのように、無自覚の人であるのように思えます。

よく、少年漫画で主人公が強敵と闘っているうちに、最後はお互い仲間意識を感じ、強敵が笑って死んでいくというシーンがありますでしょう?京都大学の前で行われているデモや集会を見ていると、あの様子を彷彿とさせることがあるのです。想えば、みなとがどうだ、吉田寮がどうだ、そんなことを言っている人達の顔は、いつも楽しそうでありますわね。

少し話がづれてしまいましたけれども、「学問の価値は等しい」というこころのもちのもと、自分の専門外であろうとも、謙虚さと誠意をもって向き合うことが大切であるということがここでの私の主張でした。

 

さて、次に、もう一つ気わたくしが気になったところを話していきたいと思います。

それは、「大学の自治」について理事会の構成の変遷をのべているところの文章にあります。

学問研究に精通していない過半数の彼らが、彼らの視点で大学を運営するようになってきているわけです。大学の自治も何もあったものではないですね。彼ら素人が学問の価値を判断するようになったのです。むしろ素人が学問の価値を分からないからお金の価値観を導入したとも言えるでしょう。   

そもそも、ここでいう学問の素人とは何を言うのでしょうか?

企業の社長や文科省の役人、市長は、学問の素人で、大学の研究者たちが学問の玄人なのでしょうか?

もう、お分かりかといただけますが、これは、質問をしているようで、少し尋問のような質問形式になっていますね。それは、そのはず、わたしは、この文章の在り方に少し、怒りをのような感情を抱いたからです。

この言い方でありますと、大学に所属していないものを、見下し、学問の世界から除外しているような印象を受けます。そもそも、社会の中で高い立ち位置にいる方たちも、かつては大学生であったり、生きる中でたくさんのことを学んできている方だと思います。

それを、個人の経歴や人生の物語をなしに、このように「素人」とまとめる方にこそ、素人観がでてしまうように見受けられてしまうのは致し方がないことでしょう。

体制批判をすることはいいことですけれども、その際に、自らも批判相手と同じ卑劣さに陥ってはならないことを、固く自分の胸に抱いていなければなりません。

そうでなければ、いくら体制が変わり、制度が変わったところで、根本的なところは何も変わらず同じような問題を引き起こしてしまうことになるからです。

あくまでも、こちらは、紳士的に、大学で培ってきたインテリジェンスを最大限に生かして、相手に向き合っていくところに、問題の解決への道筋が広がっているのではないでしょうか?

 

さて、長くなりましたが、こうして、実際に自分の意見を述べてみると、会長さんが書かれた文章に対して、随分と的外れな意見を述べているようにも感じます。

私の読んだ記事は、会長さんの大学の在り方について数ある思いや議論のなかの、ほんと少しでしかありません。それに対して、このように意見をのべるということは失礼であるようにも思えます。

そうですので、これは決して、記事の書かれた会長さんの想いを否定し、侮辱するものではんく、その想いを受け入れたうえで、わたくしが普段思っていることを語ったにすぎないというものであるということをのべて、私の手紙は終わりにしようと思います。

改めになりますが、無自覚だったわたくしに「学問の自由と大学の自治について」考えさせていただきありがとうございます。わたしのこの稚拙な文章も、あなたの生活のスパイスになれることを願って。

コロナ禍で思うようにならないこともあるかとは思いますが、会長さんのご健闘とご活躍をお祈りしております。

 

2021年2月7日 十戒真手子

 

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