「共同創作『手』」なる記事について

「共同創作『手』」なる記事について
書いたひと: つばくら

最近、このサイトに「共同創作」なる異様な記事が投稿された。妙に仰々しいタイトルであり、カテゴリーも「芸術」となっていて、もう少しどうにかならなかったのかと思うのだが、参加者の一人としてマシなタイトルを思いつけなかったのだから、僕にも責任がある。

共同創作「手」

ところで、この「共同創作」(なんだか恥ずかしいから、以後記事と称する)は、4人の人々がこの絵を見て解釈したところを「物語」(なんだか大げさだから、以後文章と称する)にしたもので、当然それぞれ全く異なる内容の文章(これでおちついた)ができた。

その中で、僕が気になったのは、それぞれの文章の語り手の視点が置かれている次元がそれぞれ異なるという点であった。つまり、それぞれの文章によって、語り手がどの次元に立って話をしているかが、ばらばらなのである。

文章が違うのだから、その視点が違うのは当然だけれど、同じものについて語ろうとするとき、それをどこから語ろうとするかということは、文章の内容や構成に強く関わっているものであるから、これを当然のこととしないで考えてみたい。

 

そこで、今回は件の記事(これではずかしくない)における4本の文章において、それぞれが工夫を凝らしたであろう展開や登場人物の造形には、一切、目を向けず、文章の形式についてだけ書いてみようと思う。したがって、ここからは、それぞれの語り手の視点がどこにあるかということによって、文章を分類してみる。

 

1つ目は、この「手」を持つ人物を語り手とした例である。「応答2」と「応答4」がそれであった。この独特な絵において、中心的な位置を占めている「手」の持ち主を語り手とするのは、最も自然な解釈であるように思われる。そして、絵の大きな主題である(ように見える)動作を行っている主体も、この「手」、あるいはその人物であるから、これを語り手に据えるならば、当然語りは一人称になる。

 

2つ目は、この絵の中の世界全体を俯瞰する視点に語り手を置く例である。「応答3」がこれにあたる。実は、「応答4」も部分的にこれに当てはまるのだが、自分の文章について解説するというのは、恥ずかしいからやめておく。

さて、このような語りは、いわゆる「神の視点」というもので、語りが三人称的になるものだ。そして、このことで先の一人称的な語りとの違いが表れる。それは、この絵の中で「手」によって無惨に潰された人々に対しても、焦点が当たり、その存在感が増しているということである。もちろん、このことは「応答3」の文章の筋に依るものでもあるのだが、そもそもそれを可能にしているのはこの形式なのである。

 

3つ目は、語り手を絵の外部の世界に引っ張り出してきた例である。「応答1」がこれにあたる。他の文章が「絵の中の世界」を描いたのに対し、「応答1」は、「絵の外の世界」を叙述した。別の言い方をするならば、前者では、絵が「神の視点」から見た世界を対象化していた一方で、後者では、絵が文章によって対象化されているのである。

 

このように考えると、敢えて「絵の中」を描かずに、「絵そのもの」を描いた点に「応答1」の面白さがあって、形式的に見ると、最も型破りなものであるように思われる。

以上のように、それぞれの文章の内容的な面白さをすべて切り捨てて、語り手の位置だけをもとに考えてみると、「応答2」→「応答4」→「応答3」→「応答1」の順で、世界を映していたカメラが、ズームアウトしていって、「応答3」と「応答1」の間で、カメラが絵の中から抜け出したというようにして、捉えることができる。

 

大仰な言葉づかいを避けて書いてきたつもりだったけれど、この文章そのものが頭でっかちで大げさなものであったかもしれない。もし、「共同創作」を読んでくれる人がいたなら、くれぐれもこんな読み方はせずに、それぞれが試行錯誤して作った、文章の内容の方に目を向けて欲しい。

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