線形代数は免許制に!?

線形代数は免許制に!?

線形代数は免許制に!?

数学者は大学から追放!?!?

 

20XX年、民間のテック企業が国家を上回る権力を持つことを危惧した日本政府により、国民の数学研究は禁止された。全国の大学から数学科が消え去り、国家と政府に忠誠を誓った一部の人間のみが、線形代数やグラフ理論・代数幾何学といった高度な数学を学ぶことを許可される。それ以外の人間はコーダー養成学科となりかろうじて存続を許された情報学科で、アルゴリズムを使わないプログラミングのみを学ぶことが許されている。すべての高度なプログラムは国営ベンダーであるNTT(National Technological Trends)が設計し、細分化された仕様書のみが民間企業へと開示され・テストを依頼される。NTTの許可がなければ一切の設計は行えない。違反したものは10年以上の禁固もしくは懲役刑と決まっている。しかし、もはやそれは問題ではない。NTTの外では、設計を出来る国民は絶滅危惧種となっていたからだ。

 

この物語はもちろんフィクションである。正直、でたらめだと思われた方もいらっしゃるかと思う。しかしながら、学問の自由がない世界では、こうしたことが当たり前に行われるのだ。

現実の話をしよう。クメール・ルージュの指揮官であり、カンボジアの第二代・第三代首相であったポル・ポトは、在任期間中に医師や学者・高級軍人などのいわゆる「頭のいい人(インテリ)」を不要な存在と考え(弾圧)、大量虐殺した。中にはメガネをかけている、手がきれいといった言いがかりに近い理由で殺された人もいた。読者の中には、医学という役に立つ学問が弾圧されたことに驚きを隠せない人も多いだろう。日本では学問の自由というのは、役に立たない学者の言い訳であって、実用的な学問(実学)とは無関係だと考える人すらいるからだ。そんなはずがない。ひとたび学問の自由が奪われれば、どれだけ役に立つか、どれだけ民間の需要があるかなど関係なく、学問は弾圧され、大学生や大学院生、専門職といったインテリは弾圧されるのだ。いや、むしろ、その学問が力を持てば持つほど、現実に与える影響が大きければ大きいほど、弾圧の対象になるだろう。

冒頭の線形代数の例に戻ると、線形代数というのは現在の人工知能(AI)技術・データ分析技術・量子化学に基づいたシミュレーションや半導体作製などの材料科学等の基礎になる数学の分野だ。現実に与える影響は極めて大きい分野といえる。弾圧の対象となる可能性は十分にあるのだ。実際、留学生に線形代数を用いたこれらの分野の指導をすること、あるいは日本で指導を受けた留学生が母国でこれらの研究をし論文を執筆することが、非難や弾圧の対象になることもすでにある。(これらの弾圧は学問の自由とそれに基づく国際的なネットワーク構築を真っ向から壊すものであり、筆者は反対の立場をとっている。)逆の立場で考えれば、日本人がこれらの分野を習得する機会も少なくなりつつあるということだ。線形代数やその関連分野を国内外から学ぶことが国賊に近いような非難を受ければ、その分野の学び手が減るだろう。近い将来、本当に線形代数を学べなくなる日が、図書館や書店、Amazonから線形代数の本が消える日が来るかもしれない。そうなれば線形代数が関連するプログラムやコンテンツを得るために、外国に毎年毎年高い金を払わなければならなくなるだろう。

日本人は第二次世界大戦の反省から、こうした弾圧を行わないこと。すなわち、学問の自由を憲法で保障している。いかなる学問であっても、世論の支持の有無にかかわらず研究してよいこと、並びに研究の場である大学は、学者や学生らが高度な自治権を持って運営することとしている。秩序の一部として、一見矛盾する自治権を保証し組み込むことが、日本をはじめとする近代国家の強さの源であった。逆に、大学は自治権を自らの手で担保しなければならない。例え世間様が「医師を殺せ。学者を殺せ。メガネを殺せ!」と叫んでも、それをはねのけるだけの実力を大学は持っていなければならないのだ。我々全員が、これを自覚しなければならないのだろう。そうでなければ近い将来日本から富が消えた時、経済活動に必要な技術一つ、手に入らなくなるのだから。

 

学問の自由がなければ、あなたの給料が下がる。

大学など自分には関係ない話だと思っている方も多いと思う。率直に言いたいのだが、あなたの給料が低いのは大学関係者のせいなのだ。関係者の一員として、お詫び申し上げます。

なぜか??

そもそも金を儲けるというのは人間の人生を助けるということであり、助けるプロセスは次の3ステップからなる。

  1. エネルギー・資源を手に入れる。
  2. エネルギー・資源を加工し使用可能にする。
  3. エネルギー・資源から生まれたごみを無毒化する。

私の知る限り、例えばほぼすべての企業は1~3のうち一つもしくは複数をおこなう。どれかのカテゴリに属するのだ。例えば石油の採掘業者や電力会社、商社の一部は1に属する。2はかなり多くの企業が属する。TwitterやYou tube、スーパーなどの小売業者、ソーシャルゲーム(ソシャゲ)の開発業者…芸能事務所なども、食料を芸能に変えるという点で2であろう。言ってしまえば第二次産業と第三次産業のほとんどはおおむね2だろう。3は下水道をもつ水業局や、産廃業者などが該当する。

これらすべてに、人文科学・社会科学・自然科学といった科学(Science)ならびにそれらを元にした技術(Technology)が必要である。現代のような高度知的社会においては、科学と技術の元ネタやそれを遂行する人材はアカデミアから供給される。学問の自由がある大学ではどんな学問でも研究できるはずなので、こうした元ネタを大量に用意しておくことができる。免疫システムのようなもので、多種多様なストックを用意しておき、いざ必要になったときには迅速に人材を供給しキャッチアップすることが出来る仕組みになっているのだ。

科学・技術・人材無くして、1~3のプロセスを十全に動かすことはできない。動かすこと自体はできるのだが、効率が非常に悪くなるのだ。結果的に富を生み出すことはできない。(日本は資本主義社会なので、富を資本主義によって分配することはできると思う。しかしながら、少ない富を効率の悪い方法で分配しているのだから、結果は明白ではないだろうか。)

例を挙げるとIT化のためには、ITを使える人間が必要である。当然職場やPTA等でITを使える人間を増やさなければならない(自分の部署や職場だけではなく、上司や取引先にも教える必要があるだろう)。その教育コストはだれかが支払う必要がある。ここで問題なのは、そもそも教育コストは誰でも払えるものではなく、払える人間と払えない人間がいることだ。例えば私は外科手術の教育を行うことが出来ない。例えお金を積まれてもできない。これは単純に、私が医師ではなく、医師としての教育を受けていないからだ。例え社会のために外科手術の教育コストを払うことが正しいとしても、私にはどうすることもできない。能力がないからだ。(お金を払えばいい、という人も多いだろうが、金でマンパワー不足を解消できるとは限らない。人がいなければ金を積んでも無意味だ。)

ITスキルについても同様である。ITがわからない人間がITを教育することは難しい(「ITの教育」という表現でぼかしていることを許してほしい)。何らかの手段でITがわかる人間がたくさんいなければ、そもそも社会のIT化は不可能であり、IT化によって得られる富を得ることも難しくなるだろう。いくら金があっても、実行する人間がいなければどうしようもない。そうなればロースキルで動かせる仕事以外はできなくなり、結果として選択肢が相当限られてしまう。(限られた選択肢の中で経営するバランス感覚を非難するものではない)類似の事情が農業・林業・水産業・介護・医療・福祉・運輸・情報通信…その他さまざまな点で起こりつつあるのではないかと、(杞憂だと思うのですが)最近は少しずつ感じつつある。

上で書いた「何らかの手段」を担うのが大学・大学院・高専等をはじめとする高等教育機関(アカデミア)の役割である。最先端研究をほほいのほいとこなせる人材を全社会に送り込み、底上げを行うことがアカデミアの使命の一つであったはずだ。

表題に戻ろう。大学教育が十全に機能していれば、日本全国どの地方でも人材があふれかえり、社会の底上げがなされ、多くの富が生まれ、より効率的にあなたやあなたの取引先に分配され、あなたはもっとリッチになっていたはずなのだ。それが出来なかったのは、大学教育にかけられる予算が年々縮小していること、大学生をはじめとする大学人がそれに抗えなかったことが大きな原因である。本当に申し訳ない。(大学以上の教育は個人利益のためにあるもので、大学で学問をするのは学生や研究者個人の利益のためであるという風潮が根強く存在するのだ。)

 

学問の自由が大学の原動力である

大学はもう少し力を持った方がいいだろう。さもなければ、「線形代数は危険だから免許制にしよう」と言ってくる輩が現れた時に、全く抵抗できなくなる。(線形代数以外でも、自分の学問分野に置き換えてみてほしい)。それを行うためにはいわゆる上層部だけではなく、実際に大学の現場で手を動かす、学生・教職員・その他関係者の理解と努力が必要なことは論を待たないだろう。自ら自由を守るために自立して行動できる学生や教職員を、大事にしつつ増やしていくことが、大学が社会の原動力であり続けるために、社会が大学を原動力として発展し続けるためには必要なのだから。