自治論概論~ぼくのわたしのあしたのために

【概要】

ポーズゥ。ポーズゥ。←これをやめよう。

全社会が(概念上の)大企業のようになった後は、全社会が大企業病になってしまう。

大学生や院生・研究員や教職員は、知的社会の保守点検をおこなうエッセンシャルワーカーでもある。

 

Q.最近よくきく「大学の自治」ってなに???

A.自分たちの学問する空間を、自分たちで形作ること。人事権と決裁権を外部機関から取り戻すことで、権威や権力から自由な安全な空間で、学問と言論を追求可能にすること。理不尽のない空間を自分たちで作ること。これすなわち大学の自治である。

 

これは熊野寮アドベンドカレンダー25日目の記事です。公開日時がおかしい気がしますが、気のせいでしょう。

 

【本文】

 

自治はなぜ必要なのか自治空間

自治空間、すなわち意思決定を現場が持つ空間は、実質に基づいた決定を行うためには重要です。KPI達成のポーズを取らなくてもよいからです。例えば具体的な案として「学生寮をつぶしてスポーツジムを建てる」というのを考えてみましょう。大学の近くにスポーツジムがあれば便利そうですね。「収益を学生や若手研究者の育成に当てる」とか言われれば反対出来なさそうです。表向きは。10人ぐらい支援すればいいポーズをとれますよね。メディア受けもいい。でもちょっと待ってください。そこに住んでいた学生や、これから住む予定の学生はどうなるのでしょうか。そもそも衣食住の保証がなければ勉学なんてとてもできませんよね??何人かの学生を華々しく支援する「ポーズ」をとることと、衣食住や仲間のいる環境という実質を支援し、高校生や社会人のハードルとなるこれらの固定費を保証する学生寮と、どっちが実質的な支援でしょうか。例えば京都大学を例にとると、学生寮はざっくり見積もってもこれまでに1万人以上の学生を、時代の要請に従って柔軟に支援してきました。実効性があるのはどちらかわかるのではないでしょうか。KPI(見かけ上の収益とか)にとらわれず、実質を見ればあきらかでしょう。

逆に、例えば大学から支援されたとして「大学の意見に従わなければ…どうなるかわかってるよね?」という圧力をかけられた場合、学問や良識を優先させる(学問の府としてはこちらが圧倒的に正しいのですが)ことは非常に困難となります。この困難さはアカデミック・ハラスメント(アカハラ)の原因だと世界各国で指摘されています。外部の機関を導入する例があることはあるのですが、最もうまくいった場合でもその学生の学問環境や研究環境が破壊される場合が多く、甚大な不利益が生じることが問題視されています。自治論、すなわち権力を自分たちに取り戻すことで、こうした一方的な不利益に対して学内で対応することが可能となります。

 

この対極にある考え方が、構成員の立場や発言権を契約でがんじがらめに縛り制限する手法です。あらかじめ決まったことしかできないようにする。これは責任を他人に押し付けるためには非常にすぐれたやり方ですが、その代わりに誰も主体的に行動しなくなります。いわゆる大企業病ですね。特定の大企業を中傷する意図はありません。仮に全社会が大企業病になってしまった場合、その先にあるものは衰退と破綻です。国家や社会が破綻すると、みんな困ってしまいます。破綻を避けるためには、せめて、せめて大学だけは、束縛からあるていど解放された自治空間である必要があるのです。そこで自治の気風を目いっぱい薫陶された学生が世の中に出ていく。これにより社会を修復していく。大学とは社会を修復・発展させるための公共財でもあるのです。

 

加えて、ポーズを取ることは、それ自体が手間です。しかしながら、現実的にはなんの価値も生まない、いわば言い訳のための仕事です。言い訳のために多くの人の人生が使われている(これって謎の税金見たいなものですよね??)ことは、大学の、ひいては個々人の首を真綿で締めています。ポーズ重視社会とは、超高税率かつ低福祉の社会のようなもので、みんなに絶望感を与える設計になっているのです。大学がその先頭に立つなど…ありえないでしょう。あんたらどこ向いて仕事しとるんや。

1民間企業が大企業病になったとしても、そこから逃げればいいだけでしょう。しかし全社会が大企業病になってしまったら、もうどこにも逃げ場はなくなり、やがて朽ち果てていくだけです。ポーズではなく実質を。うわべの契約ではなく、ルールを破りダイナミックに変え、真に必要とされる行為をおこなう実力が必要なのです。

 

ポーズを取る手間を省き、実質的に意味のある行動を行うこと。そのためには、何が「意味のある行動なのか」を決定する権利を現場が奪い返すこと。奪い返した権利を実行する実力と責任を取り戻すことが自治論の基本であり、大学でそれを行うための手段の一つが-最大の構成員・現場責任者である学生らによって行われる-学生自治なのです。ポーズを取っている暇があれば、困っている人々を助けるべきでしょう。その実力が、学生や教職員などの大学の構成員にはあると思います。セクハラ・パワハラ・アカハラ・経済的困窮・人間関係・研究の行き詰まり…。困っているひとはいませんか?あなたは困っていませんか??自治のチカラは、助けになります。

 

 

大学よギルドたれ

これまで、大学とは自治空間である必要があること、自治空間は一人一人が作っていく必要があることを述べてきました。では、その先の大学像はどのようになるのでしょうか。

私個人としては、大学は自治体のようなものへと戻ることがよいと考えています。

昨今の大学の問題は、少子高齢化による入学者数の減少が原因であることが多いです(例えば財務省から予算をもらえなかったりする)しかしながら、「大学とは知的社会のエッセンシャルワーカーを抱える拠点である」と考えると、大学の規模間と少子高齢化の間には全く関連がない(関連があるのは知的社会の拡大/縮小であり、こちらは当面の間世界規模で拡大し続けるはずである)。それは万人に開かれているべきです。学籍や所属といった概念もどんどんあいまいにするべきでしょう。そうやって参加した構成員が研究や教育・実践活動を行うことで学問を点検・発展できるようにするのです。

例えば査読付き原著論文の執筆プロセスには、自分の研究の新規性を確認する中で、過去の研究を洗い直し、論理的矛盾や抜け穴の有無を確認し、時には自分の手で確かめることで、過去の研究の信頼性を検証するという働きもあります。そうした行いの集合知が信頼できる知見となり、企業や行政が簡単に利用できるようになるのです。講義を聞いて批判的に検討したり、書籍の内容を確かめていく営みも同様の働きを持ちます。研究者・学者は、道路工事業者が安心して通れる道(物理インフラ)を作るように、誰もが安心して参照できる集合知(知的インフラ)を作る役割を担っているのです。大学構成員とは、現代のエッセンシャルワーカーなのです。いつでもだれでも知的社会のエッシェンシャルワーカーとして社会に参加出来ること、高度知的社会となった現代社会への参加権を得るためのユーザーインターフェースとして機能させること。彼ら彼女らの生活をポストによらず保証する共同体であること。次世代の大学の役割の1つだと思います。