20250927日記 #20 自由を捨てる自由

20250927日記 #20 自由を捨てる自由

・自由を捨てる自由

 

現代を生きる我々は、自由を捨てることを選択肢に入れられるようにしておいた方が良いと感じている。

 

自由を行使するということは、(伝統的な封建制に基づく共同体からの庇護を拒絶して)自分で人生を組み立てると決断することである。自分で人生を組み立てるには、それなりの労力やコストがかかる。自由を行使するためには、「代償」を払わなくてはならない。強調しておかなくてはならないのは、我々がこの事実に対して無頓着であることだ。

 

 

そもそも人々が自由を行使できるようになったのは、19世紀になってからである。それ以前の農耕社会・封建制で生きるほとんどの人類にとって、自由を行使することなどできなかった。彼らは所与のものとして与えられた社会的役割を全うするだけで良かった。言われた通りに家を継ぎ、言われた通りに嫁に行き、言われた通りに奉公に出て、言われた通りに天皇になる。それ自体が幸せであるとは思わないが、彼らが「代償」を払うことなく生きていくことができたのは間違いのない事実であろう。

 

我々は盲目的に自由を追い求めているが、「代償」の支払いだけで自分の人生のリソースを食い散らかしてしまう人も少なくないように思う。人生に価値があると捉える立場に立つと、生まれながらにして負った多額の負債を返すだけで人生を終えるくらいなら債務整理を検討するのがよいだろう。

 

 

要は、

①我々は盲目的に自由を選択しているが、それは同時に多額の代償を払わなくてはいけない。②自由を選択しないという自由もあるわけで、価値ある人生を代償の支払いで終えるくらいなら選択する自由の量を減らしてみるという選択肢を持ってみてもいいのかもしれない

ということである。

 

自由擁護派として、自分が得意な分野に挑戦できるという嬉しさもあるし、伝統的な共同体の風土に合わなかった場合に逃げ出す自由が担保されている嬉しさもある。私は自由が好きであるが、自由を追い求めすぎて人生の価値を見失うくらいなら、自由を捨てるという選択肢を常に持っておくことが中庸的生き方だと感じる。

 

 

・日記について

しばらく日記を中断していた。そもそもこの日記というのは、自分の頭の中でぐるぐる考えていることを毎日文字に起こすことで、脳のキャッシュを取り除いて思考をスッキリさせるという意図を持ってやっている。小説家である品田遊氏は「淀みを取り除く」という表現をされていた。

 

ここ2年くらい、ほぼ毎日ひたすら脳内の思案を書き殴っていた。ただしそれは自分しか見れない媒体(dynalist)であった。別に誰かが見るわけではないのでひたすら箇条書きで思ったことを膨らませていた。最近はGPTくんに箇条書きを投げつけてリアクションをもらうというようなこともしてた。一日2時間を投入すれば3000字程度の思考の残渣を文章化することはできていたわけだ。

 

しかしそれだと、一向に読みやすい文章が生成されない。世の中には人に読んでもらうことを前提とした文章という概念がある。どうでもいいといえばどうでもいいんだけど、人に読んでもらうことを前提とした文章を書けるに越したことはないと思っているので、人に読んでもらうことを前提とした文章を書けるようになりたいと思った。そこで衆人環視の環境に思考の残渣を垂れ流し、緊張感と論理性と読みやすさを兼ね備えた文章を生成しまくることで能力を底上げしようというのがこの日記の趣旨である。同時に、その日考えたことに対して日々(仮の)結論を出したように脳に錯覚させることで、翌日以降はその結論から思案を深めることができるようになる。期限がないと無造作に思考が拡散していくだけなので、定期的なセーブ地点として毎日投稿を活かしている。

 

しかし、衆人環視の環境であることが災いし、とある問題が生じた。思ってはいるけど流石にそのまま外に出すわけにもいかないトピックについて考えるとき、やはり筆が重くなるのだ。本来は思ったことを逐一文字起こしすることで脳のメモリをリフレッシュするところに主眼が置かれているはずだが、衆人環視であるがためにノイズが入ってしまっては元も子もない。そこで、しばらくは誰にもみられていないような環境でゴミ出しをしていたわけだ。

 

しばらく閉じこもって日記を書いてわかったこととして、A.誰にも見られない環境で自分の思案を全て掃き出して「淀み」を取り除く作業と、B.衆人環視の環境で多少の読みやすさと流れを意識しながらセーブポイントを置きまくる作業があり、私は双方の作業を毎日行う必要があるらしい。ただし、AとBを同じ媒体で達成することは今のところ難しい。ということで、毎日どっちもやるか、あるいはAとBを同じ媒体でやれるような仕組みを構築するかの二択を迫られているわけである。

 

そんなのどっちもやればいいじゃないかとも思われるが、流石に時間的にこれ以上の時間を日々捻出するのは難しいし、脳の体力的にも1日2時間くらいの執筆が無理なく続くように思う(他にもやらなければならない知的活動は山ほどある)。

 

あるいは自分の全てを曝け出すことのできる友人がいるかというと流石にそんな人はいないので、手の打ちようがない。そもそも誰にも見られないという前提がないと乗らない筆があることくらいよーくわかっている。

 

GPTくんがいるとも思うが、GPTくんは別に箇条書きでも許してもらえるから、小綺麗に仕上げようとするインセンティブが生じない。めんどくせー。

 

・手紙を書いた

数年ぶりに手紙を書いた。私はこれまでしばらく手紙を書いてこなかった。なぜかというと、訂正が許されない状態で文章を書くことが非常に難しいと感じていたからである。文章を書く前に全体の構成を考えて、どういう順番で話を進めて、枠にどう収まるように文字を並べて書けばいいのかを、私の脳みそは処理することができなかった。とりあえず文章を書いてみて、(あ〜これもっと後に書くべきだった〜〜〜泣)と思い、毎度消しゴムや修正ペンや二重線の世話になる。とりあえず文章を書いて出すということが自分にとって苦手であり億劫であったのだ。あと字が汚い。読める字ではあるが、手紙としてみた場合流石に汚い。ペン字とか習っておいたらよかったと思っている。しかし小さい頃の多動性を思うと続かなかったと思う。

 

しかし今回書いた手紙は、非常にすらすらとかけた。時間がなかったため勢いで書いたというのもあるが、特に論理の破綻もなかったし、書き終わった後に文章の流れを変えたいなどとは思わなかった。おそらく最近は日記という形で自分の考えていることを取ってだししまくっているからなのかなあなどと感じた。「言いたいことを一本道で書き出す」というのがそれなりにできるようになりつつあるのかもしれない。だとすると日記を続けていて良かったのかもしれないし、もうしばらく続けてみようと思う。

 

 

あと、私は他者が手書きで書いた文字の書かれた紙を捨てることができないし、ずっと引き出しの奥にしまわれている。手書きの文字って何らかのパワーを持っていますよね。

 

 

 

 

 

この文章は60分で2884文字なので、やっぱりしばらくネタを溜めておくと爆速で文章が書けるんだなあなどと思った。

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