これはグレープフルーツを勧める時に役に立つ記事です。15分程度で読めます。
目次
だいたい30円引きされているあいつ
熊野寮から歩いて数分の距離にユタカというドラッグストアがある。自動ドアを通って直進した奥には生鮮食品のコーナーがこじんまりと設けられていて、そこにおおよそ年中並べられているのがグレープフルーツ、そいつである。
私は「好きな果物は?」という質問に「グレープフルーツ」と答える中学生だった。イチゴは可愛すぎ、ミカンは家庭的すぎ。ありきたりな返答を避けつつも都会的な響きを含む「グレープフルーツ」で粋がっていた。実際のところ食べる機会は少なかったし、おおよそ酸っぱい以外の感想は持っていなかった。
グレープフルーツが本当に好きになったのは、ほんの数年前のこと。下宿を始めて炭水化物だらけになった食生活に危機感を覚え、大学1年生の私はスーパーの果物を端から順番に1種類ずつ試すというよく分からない習慣を始めた。今日はバナナ、一房食べ終わったらアボカド、次いでネーブルオレンジ、といった具合である。そこで出会ったのがグレープフルーツであった。
おいしさを説明するという野暮なことはするまい。本題はそこではない。鴨川を渡ってフレスコに行けばより良いのが手に入ると知りつつ、僅かな遠路に耐えきれずユタカに流れてしまう生活。自分の嫌いなところは数多あるけれども、この出無精は特記すべきものである。しかしまあ本題はそこでもない。
勘案すべきは、多すぎる、ということである。グレープフルーツという果物はひとりで一気に食べるには多すぎる。残り2切れくらいになると酸味のせいか舌がザラザラしてくる。対策として、私はこれまでずっと、同部屋の寮生、小枝(仮称)さんに声をかけて一緒に食べてもらっていた。そのためには、私が小枝さんにグレープフルーツを勧めなくてはならない。
さてここで本題である。
どうやって勧めるのか。
この記事では、グレープフルーツの正しい勧め方について考えてみたい。
その1「食べます?」
もっとも簡潔で一般的な誘い文句であろう。これでよいか。食べますかと問う時、食べるか食べぬか、の二者択一を相手に託すことになる。食べますかと問う時、相手に選択という負担を課してしまうのではなかったか。
例えば、お歳暮や年賀状。近年では廃れてしまった風習かもしれない。しかし発端としてはこういう質問があったはずだ。
「平素よりお世話になっております、お歳暮でご挨拶させていただいでもよろしいですか?」
この時に相手は受け取るか受け取らぬか、の二者択一を迫られる。その心労を推測ってしまう。ここで断ったら無下にしている感じになるだろうか、逆に受け取ると厚かましいのか、お返しも必要だろうか、これは社交辞令なのだろうか、はたまた親切な心遣いなのか、いったいどうしたらいいんだ…と。
やはり、「食べます?」と聞くのはやめておいたほうがいいのかもしれない。私は小枝さんに苦労を強いたいわけではない。
その2「食べます?って聞いてもいいですか?」
ひねくれている。だがこれも一つの策かもしれない。
例えば、好きな相手への告白(*1)。
「好きです、付き合ってください」
これを口に出してしまうと、それまでに構築した二人の関係性が維持できない可能性がある。質問をすること自体が強い影響力を持つような場合、ではこうしたらどうか。「実は告白したいんですが、いいですか」と聞いてみる。これで即座に相手に二者択一を迫ることは避けられるかもしれない。
しかしこれでよいのか。「告白したいんですが」と明かした時点で関係性は変わってしまうはず。てか何だこのなよなよした告白は。そもそも口に出した時点で手遅れである。では「実は告白したいんですが、ということを告白したいんですが、いいですか」と聞いてみようか、いや捻くれるにも程がある。
この策は無限後退に陥ってしまうだろう。やはり「食べます?って聞いてもいいですか?」もやめておいたほうがいいのかもしれない。私はもう少し素直に会話したい。
その3「食えよ」
一気に方向転換してみよう。もはや選択させないというやり方である。
実際、この強引さが人を救う場合もある。例えば、人の介抱や子供の世話。自分ひとりで動けないほど疲れている人には、
「大丈夫?何かできることある?」
とわざわざ質問するよりも、有無を言わせず湯船に放り込み温かい食事を用意するほうが、よっぽど力添えできる。今にも道路に飛び出そうとする子供には、注意する前に体を抱いて引き留めなくてはならない。
しかしこれでよいのか。強引さは容易に暴力へ変貌する。助言を装ったモラハラ、好意を隠れ蓑にしたセクハラ、役職の威を借りたパワハラ(*2)。
人に選択肢を与えないことは暴力である。逃げ道を与えないということなのだから。強引さが優しさとなり得るのは、相当の信頼関係と極限の状態という条件が揃った時だけだ。
やはり、「食えよ」もやめておこう。私は小枝さんを救いたいわけでも、攻撃したいわけでもないのだ。
その4 ……(美味しそうな顔)
もう何も聞かない、ただただ姿で訴えてみてはどうだろうか。これなら選択を迫ることも、行為を強要することも無く済みそうだ。よさそうである。
「……」(モグモグモグモグ)「……うまぁっ」(ニコニコ)
しかし本当にこれでよいのか。そもそも小枝さんが私の美味しそうな顔に気づいてくれない可能性がある。それ以上に、このやり方では会話が始まらない。またさらにそれ以上に、相手に解釈を丸投げするこのやり方では意思疎通の齟齬が生じやすい。齟齬。軋轢。食い違い。勘違い。
これについて僅かながら記しておきたい。
コミュニケーションにおいて最も恐ろしいのは、勘違いだ。そして勘違いに基づいた思い込みほど、気持ちが悪くて危ういものはない。そんなつもりじゃなかったのに、傷つけられてしまったり傷つけてしまったりするのだ。そんなつもりじゃなかったのに。
向こうからすれば社交辞令でご挨拶されただけだったのにこちらがデートの誘いと勘違いしまって、強引な性的交渉に至ってしまう事態。相手は自分を褒めたつもりだったのにどうしても嫌味に聞こえてしまって、逆上してしまう事態。いろいろ想定できる。皮肉のつもりが好意的に受け取られてしまった事態、何気ない言葉のつもりが心を痛めさせてしまった事態。
架空の例を挙げてみよう(飛ばしてよろしいよ)。田舎の小学校に通う子の例である。その子は登下校時、農作業をしている人を見かけたら挨拶するように心がけていた。それが良い子の振る舞いだと、先生にも親にも言われていたから。学校と家とのちょうど中間地点あたりの田んぼに、特に仲の良い大人がいた。その人はほぼ毎朝こちらに手を振ってくれたし、時々野菜をくれたし、お菓子を持たせてくれることもあった。学校に持って行くと怒られちゃうよ、と言いながら自分のランドセルの底に隠していたのを覚えている。中学進学の折、通学路が変わって会えなくなるのでその子は手紙を書いた。後にその手紙は、その子の親によって燃やされることになる。
その大人は、中学入学後もその子に優しくしてくれた。わざわざ新しい通学路でほぼ毎朝待っていたのである。お菓子をくれたし、時々お小遣いを持たせてくれたし、手や頭を撫でてくることもあった。二人は一緒に写真を撮るようになった。タンポポの綿毛を持ったり、ススキ畑の前で飛び跳ねたりして。その子の親がそれを知った時には既に、写真を撮り始めて1年以上が過ぎていた。被写体は徐々に徐々に、服を脱がされるようになった。何だか気持ち悪いし嫌だ。その子もだんだんそう感じるようになっていた、でも、その大人が笑顔でこちらに近づいてくると、なぜか笑顔をつくってしまう。それ以外にどうしたらいいか、分からなかったのかもしれない。子供に優しくしてくれるんだから良い人のはずなんだ。挨拶されたら挨拶し返すのが常識だし、物をくれたらありがとうをいうのが礼儀なんだ。大人に元気に愛想良くするのが良い子なんだ。
親と学校が動き、二人が逢うことは一切無くなった。その大人は小学生からの手紙を5年以上手帳に入れ続け、写真もアルバムに貼り付けて保管していたという。そして問い詰められると、「私たち二人は純粋に好き合っていたのだ、ただそれだけ」と答え続けた。自分があの子に触れることは愛ゆえに当然だし、あの子もそれを望んでいるはずだ、と主張し続けた。「だってあの子はずっと笑っていたよ」と。これらの後日譚を、その子は成長してから聞かされたらしい。自分は嫌だったんだと、やっと気づくと同時に、当時そう伝えられなかった自分が恨めしくて仕方なくなった。全部大人が悪い、あの大人も、すぐに気づいてくれなかった大人たちも、みんな最悪だ、そう苛立つと同時に、逃げられなかった自分が悔しくて仕方なくなった。そんなつもりじゃなかったのに。何をするつもりなのか、それがどういう意味のことなのか、先に言っておいてほしかった。受け入れるか拒否するか、私に決めさせてほしかった。何も言わないまま、何も知らされないまま、勝手にされたことがただただ無念だった(*3)。
望ましくない事態の多くは、意図の共有不足に端を発する。「そんなつもりじゃなかった」という後悔が頭をもたげる、そうなる前に「どんなつもりなのか」を面と向かって共有できなかった。そしてそのつもりのままでよいのか否かを確認することができなかった。聞かれなければ、断ることも難しい。
勘違いと思い込みを防ぐために必須なのが以下のふたつだろう。
・自分が「どういうつもりなのか」を適切に伝えようと心がけること
・「そのつもり」のままで良いのか相手に確認を怠らないこと
意図を確実に伝え合おうと、そして同意を取り合おうと、実生活で誠実に意識している人って、実は稀有なのではないだろうか。当たり前のことに思えるかもしれないけれど、実り多い提言だと思う(*5)。
もちろん言葉が全てじゃない。表情や態度は時に、口以上に饒舌だ。それに相手のことを思いやった言動は、相手の言葉をそのまま受け取るのみならず、暗に示唆されている意図や要求を汲み取ってこそ成り立つ。相手のことは思いやるべきだ。
だけど、自分の意図や要求は、責任を持って自分で伝えたい。察してもらうのを待っていては気づいてもらえない。勘違いされてしまうかもしれない。自分のために、自分で伝えたい。
また、伝えただけで完結してはいけない。私の意図や要求をどう扱うかは、相手の自由。そして相手には選択する自由がある。のみならず選択肢に縛られない自由がある。相手のために私ができることは、しっかり提示して、同意を待つこと。同意以外の選択も拒否せず受け入れる姿勢で、待つこと。
なにも特別なことじゃない。日常生活で意識できることのはずだ。
その5「食べます?」再び
入寮して、この春で3年目になる。時々グレープフルーツを食べてくれた小枝さんはもういない。同じ部屋にいても声をかける契機を掴めぬまま、お互い遠めの距離を保ちつつ静かに生活するという状態が続き、そのまま彼女は退寮してしまった。ちょうどその時に私が京都を離れていたせいで、引越しの手伝いもお別れの挨拶も出来なかった。部屋のことで質問したり、ブロック会議中に雑談したり、数回おでかけにお誘いしたり、ということはあったものの、あまり仲良くなれないまま会えなくなってしまった。小枝さんの明かしてくれるエピソードはすごくユニークで、「そんな体験することある !?」と驚かされ笑わされることが多々あった。もっとお話ししたかった。もっと頻繁にグレープフルーツを勧めていればよかった。
誘い文句は、振り出しに戻った。
「食べます?」
そういえば、どこかの寮の誰かが「コミュニケーションとは暴力である」と言っていた。自治を標榜する学生寮(*4)においては、主張が異なる者同士であっても徹底的に討論しようとする姿勢が重んじられる。討論を通して前提を共有し、自らの主張を内省しつつ、そして相手にも変革を求めつつ、ひとつの結論に至る、その過程を大切にしたいという意味なのだろう、その人は「寮生ひとりひとりと殴り合いたい」とも述べていた。
正直なところ、殴り合いたいという人には何様だ、自惚れるな、と思う。私たちは誰かを変える起こすつもりでコミュニケーションしちゃいけない、私があなたに委ねられるのはただひとつ、選んでもらうことだ、と思う。
コミュニケーションなるものを、ルールが整備されたボクシングかなにかと勘違いしているのではないか。どうせ「発言者の人格と主張を切り離して考えている」とか言うのだろう。その理念自体は確かに正しい。でもそのルールは、ディベートという狭い場のみに適用されるものだ。
殴ったつもりがなくても相手が傷を負うことがある、いくらジョブを打っても見向きもされないことがある。コミュニケーションにルールなんてないのだから、その拳がどう当たるか分からない。だから殴り合いたいなんて、口が裂けても言っちゃいけない。無法地帯でリンチされるかもしれないし、自分も知らぬまま殺人を犯してしまうかもしれないんだもの。少なくとも、殴るつもりで手を動かしちゃいけない。
自分で何に起こっているのかよく分からなくなってきたけど、そして将来的に気分は変わりうるけれど、ひとまずの結論を以下に残しておきたい。私たちは誰かに変革を起こすつもりでコミュニケーションしちゃいけない。あなたに委ねられるのはただひとつ、選んでもらうことだ。
「……食べます?一人では多くて。まあ余ったら冷蔵庫入れとくだけなので別に無理せず。」
記事のはじめは、相手に選択を強いることを懸念した。選択することは負担かもしれないと。しかし同時に、選択できるということ、それは自由なコミュニケーションのための最低条件である。私の意図や要求をどう扱うかは、あなたの自由である。あなたには選択する自由がある。のみならず選択肢に縛られない自由がある。私ができることはただ、あなたに選択の自由を委ねる、もっと言えば、提示した選択肢に囚われず行動するーーコミュニケーションから逃走するーー自由を委ねることである。そして待つこと。決して、殴りかかることではない。
先にこのようなことを書いた。
・自分が「どういうつもりなのか」を適切に伝えようと心がける
・「そのつもり」のままで良いのか相手に確認を怠らない
言い換えるならば以下のようになるだろう。
・質問の意図を十分に伝える
・あなたに行為の選択を委ねる
ずっと、当たり前に思えることばかりを書き連ねている。
だいたい30円引きのあいつをえらぶ私
以上グレープフルーツの勧め方について、幾つか想定解を出しつつ検討してきた。当然、私はコミュニケーションの正解を知らない。なので正しい勧め方など知らない。ただ、少しだけ頭の整理ができたかと思う。
小枝さんに、いつかどこかで読んでもらえることを期待したい。長くなりました。
補助線のつもりが文脈が絡まりすぎました、反省。なお、こんな潔白で軽薄なコミュニケーションなんて実際できやしないだろうし、色気がない。わざわざ説明しないことで生まれる侘び寂びがあるはずだし、正直なところ、ある程度の秘密 (*6)や誤魔化しを孕んだコミュニケーションのほうが愉快だし安らぎます。後者についてはまた別に書くつもりです。
あと、「コミュニケーションは暴力」について強い口調で書いたが、これは私が思考不足であることの証左だと思う。気を悪くしてる人がいるはずです、ごめん。補足します。相手に変革を求めてしまうこと自体は罪ではないし、むしろ自分が誰かに影響を与えうることを無罪放免として討論にあたるのは無責任です。なので暴力と形容することは間違ってない。むしろキャッチーだし良い標語だと思う。ただ、いち個人の寮生に対してパワーを持っている何か団体のようなものがそれを言うのは浅慮だとも思います。ここでのパワーというのは、いざとなれば寮を追い出せるという物理的強制力というだけではなくて、寮内に交友関係が広いとか、自治の仕事をこなしていて信頼されているとか、そういうのも含めたものです。フーコーのいうところの権力。で、その権力に私が過剰にアレルギー反応を起こした結果、強い口調になっている気がします。本来の論点とは違うところで感情を乗っけてしまっているような気がする。ひとまずこのままにしますが、今後書き方を変えるかもしれません。
*1 すぐに恋愛のことを持ち出すのは避けたいのですがなかなか難しい。ドラマ「恋せぬふたり」も、恋しないと明言することで逆説的に恋愛に焦点を当てるという事態になってしまっているわけです。
*2 直接関係はないのですが、吉岡里帆が主演のドラマ「きみが心に棲みついた」における、会社を舞台にした共依存描写は圧倒的です。
*3 私自身の思いつきに有村架純が主演しているドラマ「前科者−−新米保護司・阿川佳代−−」から設定を加えた架空の例です。
*4 「京都発地域ドラマ」枠から派生した映画「ワンダーウォール」ではその様子が垣間見えます。
*5 とはいえ自分の意図が自分でもよく分かっていないことも往々にしてある。ドラマ「恋する母たち」ではみんな大好き吉田羊が性欲と恋愛との混同を指摘していました。吉田羊っていつでもかっこよすぎる。
*6 ドラマ「カルテット」の魅力を一層際立てているのが、椎名林檎作曲のed「おとなの掟」でしょう。「大人は秘密を守る」というフレーズに毎回ぞくっとするのですが、むしろ「秘密こそが大人を守る」のではないか、と考えてみたいのです。自分の秘密を持っていることが自他境界確立の最初の一歩であり、最後の砦かもしれない。