聖域としての、存在しない記憶

聖域としての、存在しない記憶

私には小噺のストックがいくつかある。実家の周りが田んぼだらけって話、哲学科に至るまでの恥ずかしい自意識過剰、線香の香りがする初恋の人、10年ほど前に遡る弟の話、病んでる時の対処の仕方。エピソードトークというほど気の利いたものでも殊更に用意したものでもないけど、懐古や内省や会話を通してだんだん形作られた。誰でもそんな小噺を持っているはずだ。自己紹介のテンプレみたいな。ナンパ師の口説き文句みたいな。いつもの定型文。

会話のなかで距離を縮めるために小噺は便利だ。だけどそいつを披露してる時、私はいつもちょっぴり寂寥感を覚える。何かを落としてきたんじゃないかという喪失感を。取り返しのつかない上書き保存をしたんじゃないかという罪悪感を。記憶や思考を小噺へと仕立て上げた瞬間、とてつもなく強力な忘却魔法を使ってしまったのではなかったか。

例えば初恋の人を名指すこと。衝撃的で確実な一目惚れを、私は体験したことはない。ほんのりと顔が熱くなったり、鼓動の音が少し大きく聞こえたり、ずっと目で追っていたり、どうしたって声が忘れられなかったり、そういう微細な体験のみがあった。子供の頃なんて特に、記憶は曖昧である。そんな中で「この人が初恋の人」とひとり決めてしまうと、その人に回収しきれない微細な体験はどこにいってしまうのか。私は「初恋はあの人、お線香の香りのする彼」とひとりに決めてしまった。それがもっとも思い出しやすかったから。幼稚園の先生や、親戚のお姉さんや、小学校の同級生を相手にするより、そのほうがユニークな小噺になるから。そうやって何かを削ぎ落とした。もっと言うと、小さな恋の経験がさもいろいろとあったかのように書いたけれど、実はそれすらも本当にあったのかも定かでなくなってきている。きっとこれは忘却魔法。言語化という禁断の魔法。

中学生くらいからずっと日記をつけている。心の機微をペンでピン留めし続けている。苛々や不安を抱えている時、言語化は私の役に立ってくれた。自分の心がどういう状態にあるのか、どうしてこうなっているのか、考えるべきことは何か、考えずにいるべきことは何か。誤作動しがちな心を宥めて外の世界に対処するためには分析と調教が必要だった。そういうわけでずっと日記をつけている。同時に、自分で自分を煙に巻き続けている気がしている。のべつまくなしに展開する思考が大学ノートの数行に纏められるはずはないんだけど、あとから自分の夥しい字を見返すと、綴られた心象風景こそが過不足なく私の全てであったかのような気がしてくる。言語化が思考を上書き保存しているのだ。これもやっぱり忘却魔法。

私は何かを忘れてしまった。もどかしさだけが募る。何か大事なものを思い出せないまま、今でさえもこうやって記事の形で小噺を仕立て上げている。この瞬間の自分もいつか忘却の彼方に追いやられるのではないかと焦燥感に駆られている。少しでも多く残しておきたい。だから書き留める。でも残滓を掬い尽くすことなんてできやしない。

いや、もしかすると忘れてしまったものなんて、そもそも無かったのだろうか。そもそも存在しない記憶。私は存在しない記憶を求めて勝手に必死になっているのだろうか。不安が首元に迫る。言語化できない聖域、思い出せない聖域。そんなのそもそも無かったのかもしれない。

けどなんとなく、私の中のなけなしの信仰心のようなものがその聖域を求めている。おばけなんて怖くないと笑い飛ばしてしまった瞬間、本当に霊感が失われてしまう、みたいなことを考える。信じていればいつか与えられるかもしれない。仄かな可能性に賭けてみたい。どうやら私は聖域が聖域として在ることを求めているらしい。妙な信仰心のせいか、最近は過去に手を伸ばすこと自体が恐ろしくなってきた。幼少期に好んでいた作品を再び開いたり、遊んでいた場所に改めて訪れたり。触れたが最後、聖域への道は閉ざされ成れの果てにはちょっぴりの小噺だけが残される、そんなことを想像する。だから追憶から逃げている。忌避しながら、でも近づかなくては見えないし言葉を用いなくては表現できない。思い出そうとしてしまう。たぶん本当はちゃんと思い出したいのだ。結局、知らないうちに魔法を使う。聖域には近づけないまま。

改竄することによってしか記憶にはアクセスできないみたい。

それが寂しくて、時々泣いてしまう。