裏切り

裏切り

コミュニケーションが、怖い。

私には同じ大学に通う腐れ縁の友人A氏がいた。大学入学当時から、私が顔を出すイベントや授業の会場に行くとなぜか大体彼女がいた。集合場所での第一声は「またお前おるんかよwww」。こういったやりとりを幾度となく繰り返した。性格は微妙に合わないが、なんとなくお互いにふんわりリスペクトし合う関係性だった。

そんなA氏が突然「今すべてが無理だから話を聞いてほしい」と電話をかけてきた。久しく顔を合わせてなかったので少し訝しんだが、腐れ縁だし話を聞いてやることに。その日は実習やレポートに忙殺されており時間を捻出することは困難であったのだが、ちょうど銭湯に行きたい気分だったので、車を出して少し離れた銭湯まで拉致連行。道中なにやらいろいろ言っていたがどうやらA氏は”すごく大変”らしい。
「そうかそうかよくわからんけど大変やな」
私が不規則な相づちを打っていると、車は銭湯に到着した。汗を流した後、二人を乗せた車は来た道を戻る。

突然彼女が口を開く。
「好き。付き合ってください」
唐突すぎて正直困惑した。確かに腐れ縁だし、これまでいろんな場所でいろんな話をしてきたし、ずっとふんわりお互いの動向を知っていたし、尊敬できる人間の一人ではあった。明朗快活で行動力の底知れない彼女のことを「ふっ、おもしれー女」と思っていたし、実際好きではあった。だが、あまりにも唐突すぎた。彼女に対して向く「好き」が果たして恋愛感情に基づくものなのかに対してその場で答えを出すことはできなかった。

そのため一旦返事を保留することに。

その後数日間様子を見ていると、A氏はなぜか私の周りの友人たちを疲弊させる行為を取っていた。整然としていない理論を振りかざし、場に無秩序をもたらすことで、そこにいた人間は困惑し、疲弊する。それもターゲットはそれなりの人数だ。どうしてそんなことをするのか理解ができなかったし、正直怖かった。A氏にはきっと余裕がないんだろう、とは思ったが、A氏からの被害を嘆く友人の声が方々から聞こえてくるようになるにつれて、だんだんとA氏と関わることが怖くなっていった。

A氏の行為はどんどんエスカレートしていき、警察の介入も視野に入るような話も耳に入ってくるようになった。銭湯にA氏を拉致連行したときの車中には昔の天真爛漫で闊達なA氏の姿はなく、支離滅裂な発言を繰り返す様子が目立っていたのを思い出す。素人ながらもこれはどこか精神的に問題があるのではないかと疑うことになる。

よってA氏に対する方針を以下の通りに定めた。
・正直なんらかの精神病だと思う。
・しかしほかの友人が次々に疲弊していく姿を見ているのはしんどい。
・私はA氏の腐れ縁の友人なのでここで見捨てる訳にはいかない。
・どこかおかしいから一回病院に見てもらった方がいいんじゃないの、と本当は伝えたい。
・なんなら「頼むから病院に行ってくれ、さもないとお前を私の友人から引き離さないといけない」くらいのスタンスでいきたい。
・でも怖くて言い出せない。

とはいってもやはり判断に困る。私は人の行動に対して善悪二元論での絶対的な結論を出すということがどうも苦手な性分だ。私はA氏とは長い付き合いなのだが、A氏に悪気があるわけではないことは分かる。一目瞭然だ。しかしながらA氏の話題になると、自分がどう行動すべきかよくわからなくなり、胃の底からねっとりとしたどす黒いなにかが動き始め、感情がぐちゃぐちゃになり、身動きがとれなくなる。
そんな状態ではどうしようもないので、友人B氏に判断を仰ぐことに。B氏もまた腐れ縁の友人である。B氏にはある程度のそういった知見があるということをあらかじめ本人から聞いていたため、判断を仰ぐことにした(という名目にしているが、実際のところ信用に足る人物に話を聞いてほしかっただけなのかもしれない)。

B氏いわく、「(わたしも素人なので参考にはしないでほしいが)多分聞いてる話だと精神的にどこかおかしいのかもしれない 知らんけど」「あなた(筆者)が自分自身を大事にするのが一番大事だと思う。自分を守ってほしい。」みたいなことを言ってくれた気がする。B氏に感謝を伝え、自分を守るためにA氏とはしばらく関わらないことを選択。「信頼できるB氏からのお墨付き」という客観的な大義名分の元、「寄り添う/無視する」の二項対立に仮の終止符が打たれた。この決定は非常に心強かったし、救われた。とりあえず何も関わらないという方針に依拠することに専念すれば、胃の中のどす黒いヘドロが活動を始めることはなかった。これで精神的にはかなり楽になった。

しばらくしたあと、A氏が私の友人を疲弊させている現場をたまたま目撃した。最初はうっすら遠くで見てたが、友人が疲弊していく様子が耐えられなくなり、大声をあげてA氏のもとに突撃した。
「ワレうちの友人になにしとんねんぼけい!!」
怒り慣れていない大阪人の怒号が響く。
「お前は今、無意識か意識的かは知らんが俺の友人を傷つけ続けている。俺はそれを見てられない。ただ君は君が制御できない何かによって狂い続けているように見える。俺には病院に行った方がいいように思える。友人としてのお願いだ。頼む、病院に行ってくれ。俺はお前の大事な友人やから最後まで見捨てられない。でもこれ以上うちの他の友人たちを傷つけるようやったら俺がお前を実力で追い出す」
私は泣きながらこんな内容を叫んだ。

この時点でお互いに情緒は崩壊し切っており、泣きわめいたり、昔の思い出話に花を咲かせたり、お互いにブチギレたり感謝したりとてんやわんやであった。これまで抑え込んでいた感情がどっと解放されたのだろうか。情緒の神在月と言わんばかりの騒然さ。それ以降、A氏は何度か私にコンタクトを取ってきたのだが、言いたいことを全て伝えた私はそれらを全て無視した。


これら一連の自分の行為が正しかったとは、全く思わない。
すべてのコミュニケーションは多かれ少なかれ相手に変革を促すものである。自由意思に基づいているテイを装い爽やかに近づきながら、内実は行動の変容を強制するものである。人が自己変革や行動の変容を行うことは、その人にとって大きなコストである。したがってコミュニケーションとは相手に多大なコストを強いるように命じるいわば凶器のようなものであり、我々は人を傷つける恐れのある道具を気軽に振り回していることを肝に銘じなければならない。

また、自分と相手が見ている世界は違う。生まれ育った環境、出会った人々、感動した景色、駆け抜けた道、嗅いだ匂い、好きになった人、奏でた音楽、いつも飲む飲み物。どれ一つとっても大きく異なる。コミュニケーションが相手の変容を促す装置である以上、自分と異なる相手の期待を把握することなくして為しえない。相手の期待に添った変革の提案は比較的容易に受け入れてくれるだろうが、相手の期待を把握することのない一方的な変革の押し付けは、相手を辟易とさせる以外の効用をもたらさない。

したがってコミュニケーションに「正解/間違い」「善/悪」という二元論を当てはめてはならない。我々にできることと言えば、網目状のリゾームの上で必死に踊ることに過ぎない。なにもわからない、ということだけが分かる。

世界との接続が曖昧になりぼんやりした空間をさまよいながらも私に何かを期待したA氏を、「無視する」「強く怒鳴る」という形のコミュニケーションを用い、凶器をぶん回した。私は彼女がなにを期待していたかさえ把握できなかった。私が彼女を裏切ってしまったという感覚が頭の内側にべったりと張り付いて拭えない。何が正しかったのだろう、と日々自問自答しながら人生を送っている。毎晩涙が止まらない。

この話はフィクションです。

参考文献

P.F.ドラッカー(2001).『マネジメント 基本と原則 エッセンシャル版』.  ダイヤモンド社 .
村田紗耶香(2016). 『コンビニ人間』. 文藝春秋.