あなたの感傷マゾはどこから?私はヨルシカ、細田守、新海誠、三秋縋から

あなたの感傷マゾはどこから?私はヨルシカ、細田守、新海誠、三秋縋から

この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の22日目の記事です。前の日はさんたむさん。次の日は卒論王さん。

京大にいると文化方面に明るい人が沢山いるので非常に恥ずかしくなってくるのだが、かといって恥ずかしくなくなるように努力をすることもできないので、大衆受けする、大衆がアクセスしやすいものの表層を攫っているうっすい人間であるという自覚の上で恥ずかしげなく言うが、私の育ての親はヨルシカ(n-buna,suis)、細田守、新海誠、三秋縋である。育った地域は岡山県高梁市だ。因みに恐らく生みの親は宇都宮高校である。こんな人間を生み落としてしまった生産者責任は基本的に宇都宮高校に求めることができる。

先に断っておくと今挙げた人々の描くストーリーというよりは彼らの作中の断片的な描写の方が私を形作ってる気がする。ヨルシカだけは少し別枠かな。描写もめちゃくちゃ好きなうえで曲単体のストーリーはよく分からんのだがエルマ・エイミーや音楽泥棒まわりの物語(後述)もとても好きだ。

彼らに育てられた結果、今では感傷マゾ的風景を追いかける生活を送っているわけである。しかし、そもそも私が勝手に感傷マゾ的と呼んでいる風景は本当に感傷マゾ的なのだろうか。夏日、乾いた雲、錆びた標識、コンクリートブロック造のバス待合所、白い軽トラ、ビジネスバイク、ガードレール、1車線以下の道路の踏切、消火栓、国鉄車両、沈下橋、これらに見る人の影は一体何者のものなのだろうか。何者の影であるならば感傷マゾ的なのだろうか。何も分からず感傷マゾというタームを使っています。阪大感傷マゾ研のペンミさんの記事を読むに私の姿勢は感傷マゾ的というよりも寧ろ青春ヘラ的であるとも言えそうだ。まあ今回の話においてはそのどちらでも、どちらでもなくてもどうでもいいのでこの話はこれくらいにしておこう。要は私がそういう人の影を見るような景色が好きで追いかけており、そのような景色を便宜的に感傷マゾ的風景と呼ぶことにするということである。

今回の記事では、私がそのような風景を追いかけて中山間農村に出入りしたり大型二輪免許と350ccのバイクを持ってるにも拘らず原付で全国を走り回ったりするようになった経緯について考えていきたい。

 

n-bunaとの出会いは今でも憶えている。YouTubeにMVが上がった日付からして当時高校3年だったようだが、ヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」が恐らく流行っていたのだろう。勉強を終え家に帰ってから何をするでもなくYouTubeを見ているとよくこの曲のサムネイルが目に入った記憶がある。当時から逆張り精神の塊だったので素直にそのサムネをタップすることはなかったのだが、時を同じくして三月のパンタシアが「街路、ライトの灯りだけ」という曲を発表していた。こちらも同時期に頻繁にyoutubeでMVのサムネを見かけていた。ヨルシカも三パシもサムネが良くて逆に絶対にタップしてやるかと思っていた。小説の表紙買いじゃあるまいし逆に何で判断してお前はMVを見ているんだという感じだが、要は阿保である。しかしながら、私は逆張りであると同時に意志薄弱である。救いようがない。サムネに負けて「街路、ライトの灯りだけ」のMVを見たのがn-bunaとの出会いである。この年代の三パシのMVはだいたいダイスケリチャードが描いていた。またこれも非常に“負け”ている気がするがダイスケリチャードのMVはとても良くて、他の三パシのMVも釣られていろいろと見た。これによってほ~三パシええやんとなった後に、よくサムネを見てる「だから僕は音楽を辞めた」のヨルシカは全部n-bunaさんの作詞作曲なのか~という感じで拒絶感が和らいでようやくヨルシカにも手を出すことになる(だった気がする)。因みにボカロPとしてのn-bunaの曲に手を出すのはそれからかなり経ってから、恐らく京大に入ってからのことである。ちゃんと聴くようになったのはごく最近の話だ。

私がヨルシカに傾倒した2019年はちょうどエイミーとエルマという男女を主題にしたアルバムが作られている頃であり、私はこの初回限定版を購入した。大枠としてはスウェーデンで入水自殺したエイミーからの手紙を元にエルマがエイミーの足跡を辿ってスウェーデンを旅するという話なのだが、初回限定盤にはその道中の日記と写真がついている。これらが私の感傷マゾの核にあることには疑いようがない。このシリーズの楽曲はエイミー・エルマらの視点から描かれており、彼らの死生観や哲学なども非常に面白いとは思うのだが、それよりも寧ろ私は歌詞やMVで描かれる情景の方に強い影響を受けている。文章レベルで歌詞を理解するに至らず、ぱっと耳や目に入ってくるそれらを直観的に摂取することしかできないからだ。頭が悪いうえに理解する努力をしないので。

 

細田守との出会いは恐らく小学5年のときの「おおかみこどもの雨と雪」であったと思う。私の中山間地域志向は細田守の、特におおかみこどもの、影響を受けていると考えるのが妥当であろう。親戚の農家も、大学に入るまでに遊びに行っていた農家さんらも、私が中規模以上の農業を行なっている地域として認識して実際に見たことのある農業地域はすべて平地農業地域であって、中山間地域は車で通りすぎる以外には見たことがなかったのだから。なぜこんなに回りくどい但し書きを付けたかというと私の育った(育ってないが)岡山県高梁市は全域が中山間地域であり年に二度その景色を見ているからだ。何れにせよ、おおかみこどもに描かれるような棚状になった耕作地と山に接続する生活様式をもった農村を見たことはなかった。

新海誠との出会いは我々の世代の多くが恐らくそうであるように「君の名は。」である。地元栃木県が舞台の一つになっているという理由から「秒速5センチメートル」などもその後すぐ見て国鉄車両や電信柱と共にある景色を意識するようになった。スーパーカブに代表されるようなビジネスバイクが好きなのも新海誠の影響が大きくある。

 

新海誠なぞ逆張りオタクからしたら絶対に踏んではいけない監督な気がするが、新海誠や細田守はヨルシカよりも入っていきやすかった記憶がある。映画という時機を逃すと同じお金を支払って小さなスクリーンで見ることになる媒体ゆえか、そもそも口コミを知らず売れているという認識がなかったのか何なのかはわからない。

 

三秋縋との出会いは本当に申し訳ないんですが何も覚えていませんごめんなさい。

 

生みの親宇都宮高校の話をしよう。一般によく知られるように、北関東のだいたいの公立進学校は男女別学である。宇都宮高校も例に漏れず男子校である。旧制中学の流れを汲んでか、宇都宮高校には「瀧の原主義」と呼ばれる哲学がある。端的に言えば、浮華軽俗なる時代精神に反抗し、否、寧ろこれを救済する質実剛健なる日本男児をつくらんとするものである。私はこの精神が結構好きだが、そう言いつつそれは単に自分の逆張り精神の言い訳でしかないのではないかという意識もある。謂わば宇都宮高校さんに生まれるまでもなく瀧の原主義を実践しているのであり、本来宇都宮高校に私の生産責任を求めるのはお門違いであろう。

 

私が逆張り拗らせ野郎になった経緯については去年のアドカレで書いたので興味のある人は見るとよい。痛すぎてあまりリンク貼りたくないけど。どうせこの記事も来年読んだらそう感じるんだろうな。リンク先にも書いたことであるが栃木県(の更に宇都宮)に生まれたことは私が青春ヘラ的精神性を身に付けることになった原因の一つだと思う。

 

ついでなのでとかいなかであるところの宇都宮が嫌いだという話をさせてほしい。

都会と田舎の両面性を持つ、というよりそのどちらにもなれない都市のことをとかいなかと呼ばれるが、宇都宮はその典型だろう。このような都市は、生活するにはとても便利な環境だと思う。ごみごみしすぎることもないしかといって様々なものへのアクセスは良いので。しかしながら、便利であることは至上命題ではない。とかいなかは感傷マゾ的風景から最も遠い場所である。なので嫌いです。それだけ。私にとっては住む場所は利便性よりも感傷マゾ的風景へのアクセスや面白さの方が優先順位が高い。

 

宇都宮時代や北大時代には感傷マゾ的風景を追いかける趣味は持っていなかったわけだがしかし、京大や熊野寮とこの趣味は関係があるかというと別にそういうことはないと思う。強いて言えばバイクの整備ができる先輩が多くいてトランポにできる車が沢山あるからタウンメイトくんをヤフオクで落としてくることに躊躇がなかったことくらいだろうか。あとは北海道に夏の感傷マゾ的風景はあまり存在しないという点と北海道が基本的に原付で移動したくない大きさであるという点が主な要因であろう。私が感傷マゾ的風景と呼ぶものは里山的景観と重なる部分が多いと思うのだが、これは単に私が中山間が好きだからというよりは青春ものの作品が舞台として中山間地域を選びがちということがあると考える。そして里山的景観を観察するのに必要な小回り(物理的にも、心理的?にも)の効く移動手段でかつその景観に映える移動手段がカブ型の原付二種のバイクであるために京都に来てからそのような趣味が深刻化したというところはあるだろう。

というか書きながら思い出したがそもそも二輪の免許を取ったのは京都に来てからだな。

四輪の免許を取得したときに心底嫌だったという話は軽く去年触れているが、その自由を手にしたが故に不自由の中の幸福が映る風景であるところの感傷マゾ的風景に触れることのできる機会が増えたというのも皮肉な話である。自分がその感傷マゾ的風景の中にいられないことに自覚的になる程にそのような風景は味を増すということはあるのかもしれない。

 

単純に私が歳を取り、それらの景色を第三者としてしか摂取できなくなってしまったという話であった。苦しい。