京都と私

前書き
現在、12/19の午前6時である。なぜこんな時間に文章を書いているのだろうか。私は京都大学熊野寮に住んでいるが、その寮で毎年行われる寮祭で数多出される企画のうちの一つに「熊野寮アドベントカレンダー」がある。書きたい人間が毎日一人ずつ文章を書いてアップロードしていくという企画だ。私はその企画の「12/19」担当である。皆様お気づきの通り、なんと、担当日にしっかり記事を書けているのだ!私が驚愕するのもそのはず、熊野寮アドカレでは遅延掲載は当然、2,3年前の記事が未掲載のままである、なんてことも珍しくない。ちなみに現在、12/19であるにも関わらず、すでに記事を書いているのはなんと、3人だけである。そんな中、12/19朝9時提出の実験レポートを先ほど仕上げた私が、担当日に記事を書いているのは奇跡と言ってもいいだろう。

前書きが長くなった。自己紹介をしよう。実はこれが私の「初投稿」である。私は一年の浪人を経て京都大学に入学した。現在一回生の二十歳である。趣味は、サッカー、読書をすること、音楽を聴くこと、山岡家通い等々である。そうそう、一番重要なことをひとつ。私は生まれも育ちも京都市右京区である。もっというと、両親は2人とも京都出身であり、曽祖母/曽祖父の代から京都に住んでいる。洛中京都主義者の方からは「右京区は京都ではない」と罵られるかもしれないが、その批判は甘んじて受け入れることにする。洛中でないということに目を瞑ると、まあ、「京都人」と自称しても許されるはずである。

京都について
私は、大学に進学してもなお、京都に住み続けている。と、いうか、京都に住み続けるために京都の大学に進学したのだ。家から出て一人暮らしをしたかったにも関わらず、寮に入り、なんとか京都に住み続けているのである。では、何が私を京都に居座らせ続けるのだろうか?どこが京都の魅力なのだろうか?今回は、観光客目線でない、私が思う京都の良さについて語ろうと思う。
京都はいい街である。これには世界中の誰もが同意するかもしれない。しかし、なんのための「いい街」なのだろうか?観光するため?住むため?
私は、京都は「住むため」にこそいい街だと思う。しかし、世間の京都人に対するイメージと言ったら、それは、もう、ひどい偏見に塗れたものばかりである。「いけず」「皮肉」「プライドが高い」「はっきり言わない」「関わりたくない」など、インターネットで「京都人」と検索すれば悪口の嵐である。しかし、みんながみんなこのような性格ではないし、「ぶぶ漬けでもいかがどす」なんていう定型文、聞いたことのある人の方が稀である。(注1)
この辺りの京都特有のコミュニケーションが今でも残っているのにはいくつかの理由があると私は推測しているが、今回はそのことについては触れないでおく。ともかく、京都は住むのにいい街であるし、京都人はみんなのイメージほど悪い人間ばかりではないということだ。
京都のいいところ
私の思う、京都のいい点を以下に列挙する。
・田舎と都会の混ざった街である
・町が有用性に乗っ取られていない
・市内のたいていの場所に自転車ですぐ行ける
これだけ?と思うかもしれないが、私にとって京都が「よい街」であるにはこれだけで十分なのだ。ちなみに、私は京都が好きだからといって、京都(特に市政)を手放しで賞賛しているわけではない。以下、嫌な点もついでに列挙しておく。
・公共交通機関の使い勝手が悪すぎる
・自転車を止める場所がなさすぎる
・人(主に観光客)が多すぎる
・財政関係をどうにかしてほしい。金の使い方がヘタすぎる など

・田舎と都会の混ざった街である。
皆さんの中には京都?田舎だろ?派といやいや、京都は都会でしょ派がいるに違いない。しかし、私は、京都を田舎と都会の混ざった街だと思っている。京都で一番の繁華街といえば、皆さんご存知、河原町周辺である。あの周辺の人通りはすごい。いつ行っても人がいる。買いたいものはなんだって揃うし、食べたいものだって大体手に入る。カラオケ、ゲーセン、カフェ…なんでもある。そこから木屋町や先斗町の方に足を伸ばせば、キャバクラ、BAR、風俗店の連続である。さらに足を伸ばして祇園方面に向かえば、かの有名な舞妓のいる花街に突入する。しかし、方向を変えて、御所の方へ歩いてみると、一面の緑が目に入るだろう。左京区には大文字山があるし、右京区には双ヶ丘や嵐山(観光客が多いので自然をあまり感じることができないかもしれないが)がある。何よりも重要なのが鴨川の存在である。鴨川デルタや河川敷は、市民の憩いの場となっている。私含め、京都で育った子供は大抵、大文字山に遠足へ行き、疏水沿いを散策し、夏休みには御所でセミを取り、鴨川でびしょびしょになるまで遊び、そして鴨川にいる鳶に食べ物を取られる、という経験をする。そして少し大きくなれば、学校帰りに河原町や京都駅に行き、少し遊んで帰宅する、という生活を送ることになる。このように、自然に囲まれながら、繁華街にもアクセスできるところが、京都の良いところの一つである。

・町が有用性に乗っ取られていない
京都といえば学生の街である。京都は大学の数が多く、したがって学生の数も多い。京都の大学生といえば、森見登美彦の「四畳半神話大系」などに現れるように、なんとなくのほほんとして、モラトリアムを満喫していそうなイメージがあるだろう。(少なくとも私はある。)(ちなみに、私は四畳半神話大系が好きだというわけではないが、京都のイメージ作りに寄与していることは確実だし、私自身も筆者の京都観に多少共鳴するところがあるので本文で取り上げる。)
京都の大学といえば、京都大学である。京都大学はそのノーベル賞受賞者の多さや研究実績で知られていて、一昔前まではタテカンが立ったりしていた(注2)し、京都大学の寮である吉田寮などは、四畳半神話大系のモデルとして知られている。京都大学は自由だとか変人が多いとか言われることがよくあるし、真偽はともかく京大にそういうイメージを持つ人が多いのは事実だろう。私は、京都に大学が多いこと、京都大学が「そういう雰囲気」であるというイメージを持たれている理由として、京都には「モラトリアムを許容する雰囲気」「役に立たないものにも居場所を与える雰囲気」が蔓延しているからだと考える。森見登美彦との対談(注3)の中で中井治郎が『京都の特色はお坊さんと学生と観光の街であるということです。学生もお坊さんも観光客も、何かを生産するためではなく何かを学ぶためにここにいるわけです。だから、自分がまだ何者でもない状態でいても許される。おそらく、他の街には学生がゆるくやっていても許される空気感がどんどんなくなってきているという感覚があるのではないかと思うんです。』と述べている。まさにその通りだと思う。京都は他の都市圏に比べて、アジールが多い。御所、鴨川、大文字、そして、アジールではなくなりつつあるものの、まだアジールであろうとしている大学などである。このような領域は、もちろん、金にならない。ただ人々の、生き物のための空間であるだけである。その空間があることで何かが生まれるのか、といえば、必ずしも答えはイエスではない。大学生もそうである。「お前は何を生み出しているんだ」と大学生に問いかけたところで、答えが返ってくることは稀であろう。このように、京都には、「何者でもないもの」「何かの役に立つために存在するのではないもの」が多い。こう言った要因が、前述の雰囲気の創出につながっていると考える。私はこう言った雰囲気が好きで京都にいるので、「無駄なもの」「金にならないもの」「役に立たないもの」が削られていこうとしている世の中で、京都だけはその風潮に抗う存在であって欲しいなと思っている。

・市内の大抵の場所に自転車ですぐ行ける
これはいうまでもない。京都市(の盆地部分)は広いように見えて狭いので、大抵の主要スポットには自転車で行けてしまう。京都の公共交通機関はひどい遅延をしたり、観光客で混んでいたり、運賃が高かったりと、あまり優れていないので、自転車で大抵の場所に移動できるのは非常にありがたい。しかし、京都市には公営自転車窃盗団なるものが存在し、路駐している人々の自転車を根こそぎ奪い取っていく。駐輪場所には注意が必要である。

まとめ
以上、私が思う、京都のいいところを紹介した。しかし、これらは全て私の主観であって、一般論ではない。もちろん人によって感じ方は違うだろうし、京都が嫌いな人もいるだろう。しかし、この文章が誰かの目に止まって、京都の「いいところ」を再確認するきっかけになれば嬉しいし、そうでなくても、京都について思いを巡らせるきっかけになるだけでも嬉しい。現在朝の7時半、頭は働いていないし、眠いが、それでも(?)私は京都が好きである。たまには、京都、または皆さんの好きな土地が皆さんにとってどんな意味を持つのか、どこが好きなのかを考えてみても良いのではないか。

 

注1:余談だが、私はぶぶ漬け構文に代表されるような言い回しに出会ったことがある。京都に20年住んでいるのだから当然である。幼少期、近所の友達の家でプールに入っていた時のこと、友達のお母さんから「もうすぐ雷が鳴るらしいで。帰りや。」と言われた。当時幼稚園児だった私は、当然雷が怖かったため、当然そそくさと帰宅した。しかし、待てど暮らせど雷が鳴る気配はない。当時は天気予報が外れたのか、ぐらいに思っていたが、今思えばあれは確実に京都コミュニケーションだった。おおかた、プールを片付けたかったから、私に帰って欲しかったのだろう。

注2:京都大学では、2018年にいわゆるタテカン規制が強化され、かつて見られた立て看板は職員の手によって数時間も立たずに撤去されるようになった。ナンセンス。

注3:https://koken-publication.com/archives/2837