話し合いの原則

 話し合いの原則

この文章は私が三年前、吉田寮に居た頃に書いた文章です。
ふわふわしてるけど良い文章なのでここに再掲します。
私はこの文章に書かれていることを徹底できませんでした。

文責:ひとつのからだ

 吉田寮で自治をやっていく上で欠かせない原則がある。「何かしらの問題があった際に、問題の当事者間同士で話し合って、解決を図ること」これを、当事者間解決の原則・話し合いの原則と呼ぶ。
 複数人がひとつ屋根の下暮らしているのだから、その間でトラブルが起こるのは必然である。
 そんなときには何かしらの解決策が求められるが、目指すべきは、当事者の双方が納得するような策である。さもなければ、最低でもどちらか一方は、本当は納得していないのにもかかわらず、権威や権力といった何かしらの実力によって、無理矢理納得した形にさせられているからである。力こそは正義なんて、そんなものはよい解決策とは言えない。双方の言い分が十分に理解され反映されていなければ、解決策に納得なんてできない。しかし、権威や権力、常識なんかは人の言い分を聞くことなく裁定を下すことが可能であり、実際しばしばそのようなことをする。第三者が口を挟んで出しゃばって、マトモに話も聞かずに決めつけて、無理矢理裁定に持ってって、不満が残る形での解決。なんてロクでもない。(小中学校の教師に多いか)当事者間解決の原則の意義はそんな事態を避けることにある。
 権威や権力、常識なんかに頼れない以上、言葉によって、論理によって、対話によってこそ、よりよい解決策が探求されることになる。これが話し合いの原則である。
 対話をするにもお作法がある。どちらかが萎縮することなくお互い存分に言葉を振るうには、対話する寮生同士は対等の立場でなければいけない。すべての寮生を対等の立場にするために、吉田寮では、「敬語不使用の原則」というものが存在する。端的に言えば、先輩後輩関係が存在しない。ということだ。詳しくは次の項目に紹介があることと思う。
 萎縮させないということに関して言えば、差別やレッテル貼りや汚い言葉を投げつけるなんてことはご法度だ。神聖な対話の場を汚してはいけない。
 ここまでは、よりよい解決策を探るといった面からの話し合いの原則をみてきたが、ここからは、吉田寮を一つのまとまりの共同体として維持していく役割から話し合いの原則をみていきたい。
 最近「壁」が流行っていると聞いた。何でも「壁」の外側には話が通じない人たちが住んでいるそうで、間違ったことばかり喋っているらしい。「壁」の内側は正しい人が住んでいて、正しいことばかり喋っている。ある日、壁のなかの人たちは考えた。「どうして外側の人たちは間違ったことばかり喋っているのだろうか」と。「外側の人はみんな目が悪くて、世界が歪んでみえるんだ」と言う者もいれば、「外側の人はあまりものを知らないから誤った結論に至ってしまうんだ」などと言う者もいた。「そうだ、今から壁の外側に繰り出して外側の人に「正しい」ものの見方や知識を教えてあげよう」「そうだそうだ、そうしよう」ということになって、内側の人たちは外側の人たちに「正しい」ことを教えてあげたが、外側の人たちは一向に理解しない。内側の人たちはかえって壁のなかに追い返されてしまった。そして内側の人たちはこう結論づけた。「外側の人たちはそもそも頭がおかしくて対話なんて成立しない」と。
 では、内側の人たちはどうすればよかったのか。私はこう考える。そもそも人間は、これまでの経験と知識をもとに知性の働きによって、物事の是非を判断する。だが、「正しい」自分と意見の異なる「誤った」他者が現れたときに、しばしば、その誤りの原因を相手の知識の不足か誤り、さもなければ知性の欠如に求めてしまう。相手が自分と異なった人生を経験してきたことを忘れてしまうのだ。
 幼稚園のお遊戯会で悪目立ちして叱られたこと、小学校のブランコで靴を一番遠くに飛ばせたこと。中学校で体育館の窓を割って反省文を書いたこと、高校の授業をサボって部室で寝ていたこと。受験当日、吉田寮のパンフレットを受け取ったこと。私達の人生全てが今の私達を形づくり、私達の判断に影響を与える。お遊戯会でホメられた児と叱られた児はその後の人生における積極性に違いが出てもおかしくはないだろう。
 私は女性であったことはないし、老人であったことはないから、女性であるとか老人であるのがどんな感じかわからない。というか、わたしはあなたではないから、あなたがどんなふうに出来事を感じるのかがわからない。そんなとき、あなたの経験が物語になるなら、あなたのことが、わからないなりにも理解できるかもしれない。幸いにも人は共感することによって他人を追体験することができるから。
 誤った経験というものはなく、経験したという事実はいつも正しい。だとすれば、自分の持っている意見が絶対的に正しいと言えるのだろうか。相手は常に誤りか。自分ひとり「正しい」という点では、権威や権力、常識なんかと同じではないのか。
 ともかくも対話は続けられなければいけない。他者を話の通じない相手だと決めつけるのは壁をつくることと同義である。私は風通しのよい吉田寮が好きだ。私は「正しい意見」を信じない。ただ、よりよい意見があるだけであって、それは始めから明らかではなく、ただ対話によってのみ到達できると信じる。