即撤去されるタテカン、豆腐を配っただけで弾圧。古くから京大にいるみなさんは年々できることが少なくなっているように感じているかもしれない。新入生のみなさんは「京大全然自由じゃないやん」って思っているかもしれない。当局(当局=大学の運営の意思決定を行う理事会や大学執行部のこと)は規則、警告、自粛要請を繰り出し、処分をちらつかせ、責任主体である学生を大人しい消費者に作り変えようとしている。みなさんも当局の要請だから従うしかないと思っているかもしれない。その現れがコロナ禍の京大のナンセンスな自粛要請の下、例えば複数人で集まって飲食をすることを「自粛しろ」という声が同じ学生の中から上がったり、学生同士でルールを破った学生を非難しあう姿だったと思う。そこには対話も生まれないし、結果として学生の間で分断が深まっただけだった。これでは当局の思うツボだ。そもそもおかしいのは当局の方ではないか。なぜ当局が一方的に我々の行動を制限できるのだろうか。
我々が求めているものは一つ。対話である。
対話の場を設けない一方的な通達に対しては断固として抗議する。当局が対話に応じない現状、当局を対話のテーブルにつけるためには実力、数の力で抗議するしかない。時計台占拠はその表明である。熊野寮自治会はこれまで当局と確約(確約=自治会と大学当局・副学長との約束事)をかわし、団交(団体交渉)を行ってきた。確約は副学長が変わる度にその条文に従って自動的に引き継がれている。ところが川添元副学長は引き継がれた確約の遵守をせず、団交の開催も拒否した。当局が対話を拒否しているのは熊野寮だけでない。立て看板規制、集会の禁止、一方的な学生の処分、終始官僚答弁を続ける学生意見箱、挙げれば枚挙にいとまがない。京大で起こっている問題の全てが当局の対話の拒否から始まっているといってよい。
昔は時計台占拠もただの楽しいイベントだった。当局も黙認していた。それが突然あるとき一方的な通告文、それも処分をちらつかせるような卑怯な通告文によって弾圧をはじめてきた。
どういう理由で当局は時計台占拠をやめさせるのか。
1、責任の問題
→ 当局は告示で「生命・身体に大きな危険がある」といって我々の時計台占拠を弾圧しようとしてくる。それに対して我々は自主管理貫徹のもと安全性に最大限配慮し、今回はコロナにも最大限の配慮をして行っている。危険性は可能な限り低くしている。しかし当局職員、警察は我々の自主管理に基づく行動に介入し、それを妨害することで逆に危険性を高めている。
怪我人が出た場合も基本的に補償を行うのは我々である。当局はあたかも全責任を負うかのように振る舞っているが実態はただの責任逃れのために学生の自由を制限し、時計台占拠を止めさせようとしているに過ぎない。これはコロナ禍での過剰な規制にも見られる。京大は他大学と比べてもサークル活動要件や対面授業要件が厳しい。これはクラスター化した場合に責任をとりたくないからだろう。しかし、学生だって大学の構成員で、れっきとした責任主体である。要は「俺らも責任とるからもう少し自由にやらせろ」と言いたい。
2、世論の問題
→京大が世論を怖がっているのは上述したコロナ対応にもみてとれる。先日の緊縛動画配信停止騒動は記憶に新しいだろう。自らが学問と称してアップした動画を、世間の「不快」の一言で配信停止する。議論の過程を発表することもない。学問、特に人文科学は常識的観念を疑っていく作業だ。常識に反するのだから「不快」と感じる人がいるのは当然だろう。時計台占拠も今の日本社会に照らせば常識から外れた行為かもしれない。しかしそれが時計台占拠を止める理由になるのだろうか。はっきり言って、京大がどういう大学を目指しているのか、当局側からの理想像が見えない。少なくとも、今の京大には学問的にも文化的にも自由な空間を形成する気がないように見える。
本来であればこういった話を当局と直接したい。が、できない。
だからこそ、僕たちは行動します。より良い京大を求めて。
だけど僕たちの力だけでは足りない。みなさんの力、数の力が必要です。
一緒に作りませんか、僕たちの京大を。
2020年11月27日 時計台占拠参加者有志
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