【東日本大震災から10年】フクシマ回想記

【東日本大震災から10年】フクシマ回想記

今から1年以上前の話になるが、2020年の正月に僕は福島県に行ってきた。その前後に東京で用事があって、せっかく18切符が余っていたから寄り道してみたのである。

地名でいうと、いわき市のネットカフェで1泊してから富岡駅まで北上した。当時はJR常磐線が全線開通していなかったので、この富岡駅が終点だった。この富岡から浪江までは代行のシャトルバスが出ていたのでそれに乗って、浪江をしばらく散歩してから富岡に戻り、そのまま東京に帰った。

 

正直、けっこう衝撃だった。

 

というか、滞在時間が短すぎたこともあって、あれから1年以上経つのに自分のなかではまだ消化できていない。「あれはなんだったんだ?」「あれについてどう思えばいいんだ?」と今でもモヤモヤしている。「また行かないとなぁ」と思っているが、関西から東北まではちょっと遠い。

 

ひとまず、そのとき撮った写真をいくつか抜粋して振り返ってみよう。

まず富岡駅で降りたときのこと。

さっそく、駅のホームに線量計があった。

この線量がどれほどのものなのか、僕には分からなかったからその場でググった。

いろいろなページにいろいろなことが書いてあったが、要するに問題ないらしい。というか長期的にどこまで影響が出るかなんて検証のしようがないらしい。

スマホの画面に表示された地図によると、ここは福島第二原発から2kmも離れていないという。2kmも近くにいて大丈夫なのか、これも分からなかった。だけど普通に列車から降りれたということは歩いても大丈夫ということなんだろう。

すぐ近くに避難経路マップもあった。

僕はこのとき大阪に住んでいて、家の近所にも「ここは海抜〇〇mです」という標識があった。だけどその標識とは、実用性というか、緊迫感というか、覚悟の違いみたいなものを感じた。というか標識の用途が、大阪のは大雨による洪水用で、ここにあるのは津波用、という違いがあるように感じた。

コンビニに入ってみると、棚はこんな感じ。

大勢の人が買い占めていったというより、どうせ誰も来ないから仕入れも減らしてるっぽい。

もっともこれに限らず、どこまでが「1月3日だから」で、どこまでが「日本の過疎地域だから」で、どこまでが「被災地だから」なのかは分からない。

 

でも、確実に「被災地だから」という光景があった。

これは浪江の写真。

外を歩いている人なんて誰もおらず、走っている車もほとんど見かけない。

道路だけはきちんと舗装し直されていて、大人の事情というかなんというか、やけにドロドロした道路だなと思った。

 

市内に1軒だけスーパーがあったので入ってみると、生野菜が山のように積まれていて、これでもかというほど値引きされていた。

繰り返しになるが、どこまでが「1月3日だから」で、どこまでが「日本の過疎地域だから」で、どこまでが「被災地だから」なのかは分からない。

曇天の寒い日にわざわざ外を散歩する人なんていないだろう。

わざわざ正月三箇日にもやしを食べたい人なんていないだろう。

 

だけど、はっきり感じたこととして、フクシマの時空間は「放射線」「地震と津波」によって支配されていた。

まさにこれまで1年間「新型コロナ」があらゆる時空間を支配してきたように、フクシマでは「放射線」「地震と津波」が10年間も時空間を支配してきたんだろう。

僕は1年でコロナに飽きた。だけど、そんなことも言ってられないほど被災地はずっと大変だったんだろうなと思う。10年は長いし、なのにまだ終わりが見えていない。

 

 

JR東日本 常磐線(富岡駅~浪江駅間)の運転再開について
https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200117_ho01.pdf