形式・文字数一切不問!文章のみで唸らせろ!第一回千万遍石垣かつおコンテスト開催中!!

一人称と名前の話

一人称と名前の話
書いたひと: Serotonintea

 こんにちは。末期ーです。この記事は2020年熊野寮祭企画、Kumano dorm. #2 Advent Calendar 2020 16日目の記事です。アドベントカレンダーは12月の頭から始まるものですが、もう今は年の暮れも暮れです。書いた人の性格がよく出ていますね。

 元々、私は自分の下の名前で呼ばれることに慣れていない。というか、好きではない。嫌いですらある。そういうような話を先日の友人との別府旅行中にしたところ、無遠慮な友人たちは私をからかって、下の名前で呼び始め、私はお気持ち表明ツイートをするに至った。

しかし、あまり理解してもらえなかったと見えて、あちら側からも説明が欲しいという声をもらったのでこの記事を書くことにした。ついでに一人称の話もすることにした。

 まず、一人称について。私の最もカジュアルな一人称は「私」である。私の戸籍上の性別は男性であり、また自分でも一応男性だと思っている。男性は一般的に最もカジュアルな一人称としては「俺」を使うことが想定されているが、私は一切「俺」を使うことはない。かしこまった場で「私」を使うことはジェンダーにかかわらず一般的だが、私の場合別に謙虚さや礼儀正しさで「私」を使っているのではなく、ただ単純にそれが自分にとって最も近くにある一人称なのである。そのようなことを考えれば、むしろ「おれ」を一切使わないことが一番特徴的なことと言えるのかもしれない。

 私がなぜこの一人称を使うようになったかを考えるために、私の一人称の歴史を語ってみる。驚くべきことに、小学校まで、私の一人称は自分の名前だった。しかし、当時から自分の名前には違和感があって、どこか自分のものではないような感覚がしていたことを考えると、むしろ「おれ」「僕」のような一人称を使うことに抵抗があったものの、「私」は女の子が使うものだという思い込みを持っていたため、避難的に自分の名前を一人称として使っていたように思える。特に「おれ」という表現にはどこか乱暴な印象を感じていて(これは今でも続いている)、「僕」より遥かに強く忌避していた気がする。

 小学校を卒業すると、私は中高一貫校の私立の男子校に入った。中学生にもなって自分の名前を一人称に使うのは、幼稚だ・恥ずかしい、と当時の私には感じられたため、無理やりに「僕」を使うか、極力一人称を避けるかしていた。もっとも、中学校二年生まで私は結構病んでいたため、クラスメートとはほとんど没交渉に暮らしており、一人称問題にぶつかる機会はそうそうなかったが。

 男子校はある種究極のホモソーシャルなので、それに関する気持ち悪さみたいなものも多分にあったが(私はかなり浮いている部類だった)、一ついい点として挙げられるのは異性が全くいないので、相対的に「男性」らしく振る舞う必要がない。そのような環境の影響もあったのだろう、中学3年生くらいから、スノッブな一人称として「私」という一人称を使うクラスメイトが増え始めた。(彼らもまた根本的には「おれ」の人々だったが)私もそれに合わせて「私」を使い始めたところ、これがかなりしっくりきて、それまでの一人称との関わり合いの息苦しさから解放されたような気がした。

 自分にぴったりと馴染む自分の呼び方を手に入れた私は、「私」としてその後の高校生活を過ごした。そして、京大に入学、熊野寮に入寮することになる。入学前、京大や熊野寮のような環境ならば、きっと私のように「おれ」が言えなくて、「私」を使う「男性」もたくさんいるはずだと勝手に期待していた。しかし、今のところたったの一人にも遭遇していない。カジュアルに「私」を一人称に使うのは母校ではかなりありふれたことであったので、大学に入ってようやく自分の一人称の使い方がなかなか珍しいことに気がついた。もしこの文章を読んでいる方々やお知り合いの中にそのような人がいるのならば、是非教えて欲しいです。

 そもそもなぜ「おれ」「僕」のような一人称を使うことに抵抗があったかということについては、まだ自分の中でも掘り下げられていないが、おそらく性自認が中性よりの男性であることに関係しているのだと思う。そのため、男性的な一人称の「おれ」「僕」を避け、その中でもより男性的な「おれ」を強く忌避していたのだと思う。このことは大学に入学=異性のいる環境に6年ぶりに入り、相対的に性が映し出されてつい最近気がついた。このことは後述する名前問題にも多少関係する気がする。

 次に、名前について。

 まず一つ目の理由としては、シンプルに呼ばれ慣れていないことだ。小学校までは友人からも教師からも名前で呼ばれていたが、母校の中高一貫校では苗字で呼ぶことが支配的であり、さらに同じ名前の人間がいて彼は母校でも名前を呼ぶ習慣のある体育会系の人間だったため、文化部の私は押し出される形で苗字で呼ばれ続けた。中高一貫校での6年間は現時点での私の人生の3分の1近くであり、名前を呼ばれる感覚を忘れるのに十分な時間である。特に最初2年間は自分の殻に引きこもっており、匿名のインターネット空間に生きていたため、名前はより一層遠いものになった。(最も、名前というのは他人との関係上でアイデンティにつながっていくものなのでこれは単純に経験量の問題かもしれない。マッキーという渾名も最初はあまり好きではなかったが、友人がその名前で呼ぶのがだんだん嬉しくなってきたため、今では気に入っている) 

 二つ目の理由としては、先ほども述べた性自認的な問題が関係していると思う。私の名前には「太」が語尾についており、明確に男性性を示すマークになっている点があまり気に入っていない。

 三つ目にして最大の理由が、ただなんとなく馴染まないということだ。物心ついた時から、自分のアイデンティティに接続されたものとは知っているものの、やはり無理やりにくっつけたもののような感じがあった。この名前をつけた両親のセンスは悪くないとは思うものの、こればかりは仕方がない。単純に運が悪かった。

 それにしても思うのが、寮生はみないい名前をしている。その人から切り離した文字列としてみても素晴らしいし、その人格にも素晴らしくしっくりきている。ただ、どうしたって名前は他人から与えられるというある種暴力的ともいえるスタートから始まるものなので、いい名前を持っているのは本当に幸運なことだと思うし、しっくりこない人がいるということも配慮してくれると嬉しい。

エッセイカテゴリの最新記事