政談しましょう!

政談しましょう!

政談しましょう!

……と、言う事で、私は、京都大学の学生と話をするべく熊野寮に去年の冬頃から度々お邪魔している者であります。筆者であります。

「熊野寮生の運営している千万遍石垣と言うサイトがあり、私もたまにここに文章を載せているのだがあんたも何か書いてみいひん?」と、先日お話した熊野寮生N博士からお誘い頂いたので嬉しくなりしかし少し面倒くさいなとも思いながらでも折角なので何か書こうかと言う事で、私の美しい文章を書いて行こうかと思います。

 

(京都大学の学生さんに言われた記憶はほぼ無いですが)「政談って何ですか?」とか、あと話していると「これ別に政談じゃ無いじゃないですか」とか「早く政談に入りましょうよ」とか、言われる事がままある。政党がどうとか選挙がどうとか国政がどうとかそういう範疇の話題を政談と言う文言からイメージしていると思われるのですが、政談と言うのはもっと大きな範囲を包む概念であると少なくとも私はイメージしている。自民党がどうこうとか言う話=政談では無い(勿論それも政談ではある)のです。いよいよ冷え込むこの時期に私が一人「寒っ!」と呟くのも政談です。分かりますでしょうか。そういう事である。

 

数カ月前、古代ローマの思想家アウグスティヌス(354〜430)のキリスト教「原罪」概念に関する、アメリカの文芸誌ニューヨーカー誌による長編論考記事を読んだ。(https://courrier.jp/news/archives/112370/ ※有料記事です)

アウグスティヌスによれば「原罪」とは、アダムとイブが神の教えに背いて禁断の実を食べた結果、人類は性欲に駆られ、恥の意識と共に生殖(性行)を行う様になったと言うその事、つまりは人類の始まりであるアダムとイブの犯した罪に起因して、我々人類の誰もが元来背負っている罪の事で、簡単に言えばそれは人間の「性欲」の事を指していると理解して良いです。

そして、もしアダムとイブが禁断の実を食べていなければ「我々人類は、我々が手足を動かすのを意志するのと全く同じ様にして、つまり一切のあの性的熱情に駆られる事無く、性器を性行可能な状態とする事を静かに意志し、生殖行為を行う事ができた」とアウグスティヌスは夢想した、との事。

 

何じゃ、そりゃ、(笑)、と、思わなくはない話ですが、しかしこの話は彼(アウグスティヌス)が人間として極めてまとも(倫理的)であった事を証しています。

 

ドイツの著名な哲学者イマヌエル・カント(1724〜1804)の書いた有名な話として、「人間を単なる物(道具)として、つまり手段として扱うな、常に同時に目的としても扱え」と言うのがあります。これは人間関係の倫理の根幹と言って良いでしょう。人付き合いと言うのは常に、人間は手段としてよりも先ず目的として尊重されている、と言う前提に覆われていなければ決まりが悪い。私が「ヘイコラ!パン買って来い、オイ!」と誰かに言われて、パンを買って来てあげた際の依頼主の反応は「う〜ん、パン買って来てくれたんだね!ありがとう!君最高!………パン美味しい!」(=君が最高!パンを買いに行ってくれた君自体が素敵だ!君の存在自体が先ず私の目的だ!……パン最高!君との人間関係を手段として得られた効用たるパン美味しい!単なる手段としての君もまた最高!)と言う、基本こういう形であって欲しい訳で、ここでもしリアクションが「ヨッシャー!パン食える!オッシャー!」だけやったりすると「パンと言う目的の為の単なる手段としてのみ私が扱われている」感じになり、私はそんな依頼主の為にもう次回以降パンを買いに行く気持ちにならなくなってしまいそうになるので、これは誰にとっても(パンの依頼主にとっても私にとっても私がパンを買いに行く事になるスーパーの店長にとってもスーパーで働いて生活している全従業員にとってもスーパーがあるお陰で助かっている社会の皆にとっても)良くない訳です。まあ簡単な話ですね。

 

アウグスティヌスが「性欲」に着目して原罪と言う概念を立てたのは、このカントの書いた事に示されている様な人倫の根本原理とでも言うべき原則に、性欲を伴う人間の営為が抵触せざるを得ない事に極めて自覚的であったからでしょう。

 

人間は社会的動物であり、社会と切り離されては存在できず、人間社会とは人間関係の総体の事である。そして、基本的には全ての人間関係にカント的人倫原理が通底しているべきでありかつそうでなければならない、と言う事には多くの人が同意するであろうし、皆が実際内心でどう考えているかはともかく少なくともこの我々の生きる大規模複雑化した現代社会において例えば「私は他者を私の何らかの私的な目的の為の単なる手段として見ています!」と公言して憚らない人間はあまり居ないでしょう。

しかしアウグスティヌスも思い悩んだ様に、人間の為す営みの中でこと性欲の絡む領域に関してだけは、どうしてもこのカント的人倫原理との整合性を取る事が難しくなって来る様に思われます。

 

例えば、人間の三大欲求として食欲・性欲・睡眠欲があるとは良く言われますが、先ず睡眠に関しては一人で完結する行為であり睡眠を取ると言う欲(目的)を満たす為の手段として特段他者の介在を要する事はありません。食に関しても、カニバリズムで人が人を食べるのでも無い限りは、カントの言う話は人格概念を主題に置き基本人対人を前提にしているものなので、「人間を」手段としてのみ扱うな、と言う話との兼ね合いにおいては問題になりません。「何故人以外の動物その他だったら食べても良い事になるのか?」と言う別の論点についてはここでは取り敢えず置いておきます。

でも性欲に関してだけは、難しい。睡眠を取ると言う行為は人間他者を介在させず自己完結します。食欲も人を食べるのでない限りはそう。しかし人間の性欲は殆ど人間が対象になる(獣姦と言う言葉もあるので一応 殆ど としておきます)。つまり、性欲を満たすと言う目的の為の手段として人間他者の介在を要する事になる。

勿論性欲は食欲・睡眠欲と同様に生理的な欲求であり個々人の意志と言う様なものに関わらず誰もに作用します。また更に、ここで重要になる事として、先程「人間を食の対象としない限りは問題にならない」としましたが、食欲に駆られ何かを食べている時人間は正気を、つまり理性を保っています。「飯が美味すぎて正気を失う」やつは基本居ないと考えられます。ただ性欲においては、性的快楽に身を委ねる際、人間の理性は「飛んでいる」か或いは、恐らくはより重要な事として、当人がどう感じているかとはまた別の客観的・社会的なコミュニケーションの次元において「飛んでいると見做される」。例えば「理性が飛ばない恋愛」と書くとどうでしょう、或いは核心に近付くべく敢えてもう少し「双方終始一貫して正気を保ち続ける情熱的なセックス」。なんだか語義矛盾な気がして来ないでしょうか。

 

全ての人間関係・社会的交友は、「お前は人間を手段としてのみ扱っているのではないか」と言う誹(そし)りを受け得ます。私が誰かの為にパンを買いに行くとして、それを買いに行かせる人間に対しては「あなたは、パンを手にすると言う目的の為に他者(私)を単なる道具として扱っているのではないか」。パンを買いに走る私に対しても、「あなたは、そうやっていつも気前良くパンを買いに走る事で『こいつは頼めばすぐにパンを買いに行ってくれる便利な奴だ』と言うあなたへの好印象をパン好きの依頼主に持たせる事で、パン好きの依頼主から何かあなたにとって都合の良い行動を引き出そうと、つまり依頼主を何かあなたの私的な隠れた目的の為の手段として利用しようと扱っているのではないか」と、誹られ得る。例は何でも良いですが、私欲の為に人を利用しているのではないか、それは反倫理的態度ではないのか、と言う指摘ですね。

ですがそこで、「パンも欲しいですが、それよりもいつもパンを買いに行ってくれるあの人(私)の優しさを感じられる事がとっても嬉しいのでお願いするのです」(パンの依頼主)とか、「私はただただあの人から私への感謝の言葉を聞ける事が嬉しくて買いに走るだけです」(私)等と、「他者の人格そのものをも同時に尊重しており、決して単に手段としてのみ扱ってはいない」と言う反論がいくらでもできます、要は、絶えず指摘され得る反倫理性を、「そうでは無い」と言う反論によって永久に上塗りし続けられる、と言う訳です。

ただし「永久に反論による上塗りが可能」とは言え、反論とは必ず何らかのコミュニケーションツールによって為されるものであるので、そこには当然「コミュニケーションの可能性が開かれ続けている限りは」と言う条件が、つまりは言い換えれば「理性を保ち続けられている限りは」と言う条件が、付くと言えます。この「理性を保ち続けられている限りは」と言う点が、やはりポイントになります。

 

先程アウグスティヌスの件で、「『我々人類は、我々が手足を動かすのを意志するのと全く同じ様にして、つまり一切のあの性的熱情に駆られる事無く、性器を性行可能な状態とする事を静かに意志し、生殖行為を行う事ができた』とアウグスティヌスは夢想した」と言う事を書きましたが、この事からも推察できるように、アウグスティヌスが「原罪」概念において人間の性欲を問題にしたのも「人間は理性的存在であるがゆえに他者を尊重し社会を営むが、性欲に駆られ生殖を行う際にはしかし我々は『理性を失って』しまう」と言う事への彼の強い葛藤に起因しているのだろう、と考えられます。

 

「あらゆる人間関係・社会的交友に対し、反倫理性の疑いへの指摘が永久に投げかけられ得るが、しかし(理性が保たれコミュニケーションの可能性に開かれ続けている限りは)『そうでは無い』と言う反論によって永久に上塗りが可能」であると言うこの事によって、結局あらゆる人間関係・社会的交友は、「(理性が保たれコミュニケーションの可能性に開かれ続けている限りは)善なるもの(=決して反倫理的では無く倫理的なもの)として肯定され続けられ得る」と言う事になる訳です(但し、反倫理性への指摘に対する「そうでは無い」と言う反論が、客観的第三者から見て納得可能なものであると判断されるかはまた別の話です)。

しかし、それがこと性愛の領域に入ってしまうと、「性的快楽に身を委ねている際の人間の理性は、(実際の所当人がどう感じているのか、とはまた別のコミュニケーションの次元において)『飛んでいると見做される』」と言う先程私が書いた(主張した)事を前提にして言えば、「あらゆる人間関係・社会的交友に対し、永久に投げかけられ得る反倫理性の疑いへの指摘」に対する「(理性が保たれコミュニケーションの可能性に開かれ続けている限りにおいての)永久的な反論可能性」は、恋愛・性愛関係における性的快楽の最中に居る人間達の理性が「飛んだ(と見做された)」時点でもう閉ざされてしまう事になる。

そして、人間の社会的営みが「善なるもの(=決して反倫理的では無く倫理的なもの)」として肯定され得る為の、人間が理性的である限りにおいて保たれ続ける「(全ての)人間が(全ての)人間を手段としてのみではなく同時に目的としても扱っている」と言うカント的人倫原理たる前提が維持できなくなるので、「性愛関係にある人間達の理性が『飛んだ(と見做された)』」時点において為され得る「あなたは『性欲』と言う目的の為の単なる手段としてのみ他者(この場合性愛のパートナー)を扱っているのではないか」と言うこの指摘に対して、反論ができないと言う事です。

つまり、「性愛関係にある人間同士の社会的交友の目的は、相手の人格そのものでは無く自らの性欲の充足にある」と、(繰り返しになりますが当人の感じ方とは別に、それよりもより重要な事として)社会的に「そう認識されざるを得ない」。

故に、事ここに至っては誰もが、必然的に、「自らの性的快楽と言う目的の為の道具として他者(性愛パートナー)を扱う反倫理的存在」としての烙印を押される事になる、と言う訳です。

 

しかし、これは恋愛・性愛の営みが「社会の内側にありながら同時に社会の外側にある」故の帰結なのですが、実はその「反倫理的な存在としての烙印を押されざるを得なくなる」と言う、正にこの事態こそが、恋愛・性愛では無いその他の人間関係とは区別されるものとしての恋愛・性愛の営みにおいて目指されるべき目標である、とも言えるのです。

 

通常の、少なくとも性愛では無い類の社会的交友においては「人間を単なる物(道具)として、つまり手段として扱うな、常に同時に目的としても扱え」と言う原則の貫徹が目指される訳ですが、実は性愛においてはそうではない。「性的な関係を含んだ人間関係」が性愛であるとすれば、性愛とは「性的関係が結ばれる事によって初めて成立する愛」となり(そうでなければ「性愛」と「友愛」の区別も「恋人」と「友人」の区別も意味を為さなくなります)、そして性的関係を結ぶと言う事はここまで書いた事に従えば即ち「反倫理的な存在としての烙印を押されざるを得なくなると言う事態」を意味します。

この事を以て、「反倫理的な存在としての烙印を押されざるを得なくなる」と言うその事態こそが、恋愛・性愛では無いその他の人間関係とは区別されるものとしての恋愛・性愛の営みにおいて目指されるべき目標である、と言う事になる訳です。

 

抽象的にまとめます。少なくとも恋愛・性愛では無い、その他の類の人間関係において目指されているのは、無償の愛の永久的な贈与、つまり「カント的人倫原理に向けて倫理的な人間関係を開き続ける事」です。

しかし、恋愛・性愛としての人間関係に限って言えば、そこにおいて目指されているのは寧ろ「性的関係を結ぶ事、即ちカント的人倫原理への違背に向けて(通常意味される所の)倫理的な人間関係を閉じる事」なのです。

その他の社会的交友とは区別される特殊な人間関係としての「恋愛・性愛関係」の性質故に、通常の人間関係において意味される所の「愛」概念と恋愛・性愛関係において意味される所の「愛」概念とでは、概念の成立要件が異なっており寧ろ真逆の意味的方向性を持つとさえ言える、と言う事です。

因みに「『理性が飛ばない恋愛』と書くと語義矛盾な気がして来ないか」と言う話もこの事に関連します。

 

恋愛・性愛、そして性行・生殖は、そこから「社会」が始まると言う意味においては正に社会そのものでありその点では社会の内側にありながら、しかし人間が他者を尊重し社会を営む事を「善なるもの」として位置付けそれを支える為の道徳や人倫と言った理論的基盤に抵触せざるを得ないと言うその意味においては、明らかに社会の外側にある、と言う事です。

 

ここまでの内容から、冒頭「原罪概念はアウグスティヌスが人間として極めてまとも(倫理的)であった事を証している」と書いたのは「社会的存在たる人間として、倫理的である事・善なる存在である事に関心を向ければ向ける程、人間が恋愛・性愛関係を営む上では不可避的に生じる反倫理性に対し敏感となりかつそれに葛藤せざるを得なくなる」と言うこの様な文脈においてだと言う事がお分かり頂けるかと思います。

 

そして性欲に駆られ理性を失うその様な形でしか生殖を行えない我々は、本質的に間違っており、それはアダムとイブの犯した罪によって全人類が背負う事となった「原罪」故なのである___

と、こういう話になる訳ですね。

 

 

 

さて、しかし記事によれば「アウグスティヌスは『子を生む目的で結婚した男と女が共にすることは悪ではなく、それは善だ』と強調した」とあります。また、続いて「だがその行為は悪なしになされない(アウグスティヌス)」ともあります。性欲は原罪でありやはり悪であるが、しかし結婚した男女間であれば良い、と言う訳です。何故「結婚していれば善だ」と言うのか、それを論じ始めると恐らく切りが無くなると思われるので細かい話は省きますが、ここまで書いた事も踏まながら私の理解を短く述べるならばそれは「性交が行われる時空間が不可避的に帯びる反倫理性が、より大きな時空間に跨がる社会契約である結婚制度が帯びる倫理性の内側に包(くる)まれるから」です。

 

(後編に続けます)