エッセイ エクリチュールとパロールについて

 

雑記帳について

寮には雑記帳と呼ばれる人々が好きな内容を書くことのできるノートがある。そこにすさまじい筆致で書かれた短編小説が書き込まれていた。その人の書いた文字を見てみると、どこにも訂正や修正が入った様子がない。最初から最後まで一発書きで書ききっているのだ。私はこれを真似してみようと思ったのだが、どうも上手くいかなかった。誤字・脱字は当然のこととして、書いてる途中でまるごと一文を消したくなったり、文や段落の順番をまるごと入れ替えたくなったりする。仕方がないので矢印を伸ばし世界に散らばる文たちのお尻とあたまをつなぎ、文脈上の異端者をぐりぐりと黒く塗りつぶし、上に正しい文字を書いた。

 

結果、読み手の目線が紙の上をあちらこちらへ走り回る、大変読みづらい文章が完成した。

 

パロールとエクリチュール、一応の定義

本来の定義(なんだそれは)とは異なるかもしれないが、この文章ではパロールを

・その場その場でのレスポンスが常に要求される、ジャズ的な即興性に基づいたもの。それに伴い頭の回転素早い言語化が必要不可欠なもの。
・時間の流れに逆行することはできず、時間軸上に一方通行で並べられるもの

と定義し、エクリチュールのことを

・時間に制御されないため、アウトプットにじっくり時間を使ってもいいもの
・書き直しや推敲などによる、時間の逆行が可能なもの

と定義する。勝手に定義するなといろんな人に怒られそうだが気にしてはいけない。生兵法は大怪我の基

議論偏重主義の環境で起こること

会話や議論といった、パロール的コミュニケーションが要求される場では、「頭の回転がゆっくりで、思考を言語化するまでのスピードが遅い人」ほど参加しづらい。どうしても「頭の回転が早く、即座に思考を言語化できる人間」の独壇場になってしまう。

これは非常に良くない。なぜならば、「なんも考えていないけれども口だけが達者な人」が場を牛耳ってしまい、「頭ではめちゃくちゃ考えているけど言語化に時間を要する人」の意見を掬い上げることができない。即興的な言語化能力がただ遅いだけで、実は素敵な考えをたくさん持っている人間の言論がこれまでどれだけ封殺されてきたか、想像に難くない。

わたしと口語

結局何が言いたかったかというと、私は元来パロール的コミュニケーションが得意ではない。自分の思っていることを人に伝えるための”筋肉”が不足していた。頭で何かを思いついても、それを「体系的に整理する能力」、「言語化してほかの人間に伝える能力」がなかった。会話の途中で訳がわからなくなってニコニコするだけ、なんて場面は日常茶飯事であった。

しかしながらここ三年くらいで状況が大きく変わった。時々千万遍に載せるための文章を書くことにより、時間をかければ自分の思考を体系的に整理することができるようになった。なんとなくコツを掴んだ感覚がある。
またパロール的コミュニケーション有利の環境にしばらく置かれたことで、環境に適応して、口が達者になった。つまり「会話内」という極めて即座的なレスポンスが求められる場面において、短い時間で自分の思考を(聞く耳を持とうと思える最低限度の水準で)言語化することができるようになったのだ。

つまり、ここ三年間くらいで思考を体系化する能力を得ると同時に言語化するスピードが爆増し、会話らしきものができるようになったのだ。内容はスッカスカだったけど。

わたしと文語

そして最近、自分の思考をまとめるには他人と会話するよりも、文をしたためる方が効率的であると結論付けた。要因はおそらく2つある。
1つ目の要因は、時間を遡れることだ。会話と違い、いつでもどこでも自分の過去の思考を参照することができるというのは、思考を練り上げていくうえで非常に効果的である。自分の書いた文章をまとめているフォルダがどんどんでかくなっていくし、何かを考えるときはそれを見て立ち返る。視覚情報として入ってくるのもありがたい。

2つ目の要因として、パロール的コミュニケーションはとても疲れる。何気なくやっているが、元来得意なことではないので実は裏でものすごいエネルギーを消費している。ありがたいことに四六時中声をかけられる機会に恵まれているが、声をかけられた瞬間エンジンがかかり脳はどんどん熱を帯びていく。脳が休息を求めている状態であってもだ。会話や議論に伴う脳のオーバーヒートにより生活に支障が出ていることが判明した。時間無制限の会話を封印し、人の多いところに行くのを控えることにした。自分がどういう状態であっても目と目があったら会話が始まるのは非常によろしくない。ポケモンバトルじゃないんだから。

紙に文章を書くことのパロール化

雑記帳の話に戻ろう。

ワープロの登場により、紙に文章を書くという行為が相対的にパロール化してしまったのではないだろうかという仮説が浮かび上がる。

私は普段PCを用いて文章を書く。PC上の文書作成ソフトを用いると誤字脱字の訂正や、文章の順番の入れ替え、挿入などのための機能が標準装備されている。おかげで私はそれっぽい、論理的っぽい文章をここに記すことができている。時間を巻き戻した書き直しや推敲がいとも簡単に行える。しかし、紙のノートに文章を書こうと思うと、それら訂正は容易には行えない。逆行することのできない、時間による制約を受ける、方向付けのなされた不可逆なものだといえよう。

雑記帳に訂正だらけの読みにくい文章が出来上がった時に、私はもどかしさ少しの劣等感を感じた。

「書きたい内容は確かにあるんだけど、それを読みやすい形でアウトプットできない~~!ほかの人はできてるのに~~!!うえ~~~~ん!!!!」

気付き

その感覚は、パロールの場に初めて立った時の感覚と一緒だったのだ。

先輩に囲まれながら初めて議論の場に立った時の緊張感。勇気を出して自分の意見を口にしようとするも思うように言えずに歯がゆい思いをした感覚。「発言してえらいね」とおだてられ、もっと頑張るぞと誓った決意。

忘れていただけで、そういう感覚が、確かにそこにはあった。そして、ほかのみんなもそうなのかもしれない。パロール的コミュニケーションが苦手な人間は議論や会話の後、類似のもどかしさを感じているだろうなと気付いた。

そういった人たちの素敵な内面を覗かせてもらうための方法を模索していく必要がある。私はしばらくそれに尽力しようと思う。

そのための解は、おそらくエクリチュールであろう。

追記-千万遍に載せるにおいて-

(この文章はもともと自分用の日記だったのでちょっと追記)

元来、千万遍は思考の発露に時間がかかる人たちが、自分の内面をさらけ出しすための場所だったはずだ。何を隠そうこの私が、「会話のテンポには付いていけないが、時間さえかければ何とか自分の考えを捻出できる」人間だった。そういった人たちはほかにもいるはずだし、みんなのすてきな内面に迫れるんじゃないか。当時の私にはそこまで言語化できるだけの能力はなかったが、確かにそう思っていた。いまじゃ方向性を見失ってすっかり謎サイトになってしまったが。

 

とにかく私の言いたいことはこれに尽きる。

君の内面を見せてくれ。文章をドシドシ書こう。

どうせなら千万遍に載せて。