政談しましょう!〜後編〜  恋愛・性愛、倫理、結婚制度の今後について

政談しましょう!〜後編〜  恋愛・性愛、倫理、結婚制度の今後について

(2022年12月24日「政談しましょう!」より続きます)

 

重要なのは、前述したアウグスティヌスの「だがその行為は悪なしになされない」と言う言葉でも示される様に、婚姻関係にある場合であっても性交の孕む反倫理性それ自体はあくまでもキャンセル(取り消し)されない、と言う事です。

「性交は悪だ」と言う議論は、性交が行われる時空間にのみ焦点を当てた際の倫理判断ですが、「結婚していれば善だ」と言う議論は少なくともそれよりは長く広い時空間に焦点が当てられた倫理判断です。少し解りにくいですが、結婚していれば善だ、と言うのは「性交そのものはあくまでも悪である」と言う議論を前提したその上で「しかしより大きな時空間を包んでいる『結婚(とそれに付随する性交)は善だ』と言う倫理判断が優先されるのだ」と言っているだけです。

言い換えれば「結婚制度(と言う社会契約)が持つ善性に言及している」だけであって、結婚していようが何だろうが性交そのものが孕む反倫理性それ自体は変わらない、つまり「完全にキャンセルはされずに残り続ける」のです。

 

この辺りのロジックと絡めて考えると、キリスト教含む諸宗教で婚前交渉が禁じられる事・キリスト教カトリックの聖職者では結婚して家庭を持つことすら教義上許されないケースが未だ存在する事・神の子イエスを身籠った聖母マリアが処女受胎(処女のまま子を宿す事)でなければならない事、等の意味も理解できて来るのではと思います。

 

少し話を戻します。「社会契約たる結婚制度」と先程書きましたが、結婚とは当然単なる口約束では無くあくまでも「制度」即ち社会制度です。「制度」とは社会運営の円滑化・適正化を促進する為の道具であり、社会とはカント的人倫原理が基本的には通底しているべき人間関係のネットワークの事です。故に、「結婚」がどの様な社会的性質や目的を持った「制度」であると捉えられるにせよ、それは必ず何らかの「社会的合理性」に向けられたもの、つまり「カント的人倫原理に開かれた倫理的な人間関係を促進する為の道具」として、理解される事になります。

 

恋愛結婚、と言う言葉があります。見合い婚では無い恋愛を経た上での結婚、と言う意味合いですが、国立社会保障・人口問題研究所の統計によれば日本では1960年代後半に恋愛結婚が見合い結婚の割合を上回り、それ以降は見合いではなく恋愛結婚が大半を占める様になります。

そのような経緯もあり、現代において使われる恋愛結婚と言う言葉の背後には「恋愛の延長線上に、或いは恋愛の終着点として結婚がある」と言う含意が基本的に意識されます。

 

ただ、前に述べた様に、恋愛(性愛)とは最終的には「性的関係を結ぶ事、即ちカント的人倫原理への違背に向けて(通常意味される所の)倫理的な人間関係を閉じる事」が目指される営みです。

逆に、結婚はそれが制度である以上必ず、何らかの社会的合理性に向けられた「カント的人倫原理に開かれた倫理的な人間関係を促進する為の道具」として理解されます。つまり結婚とは「カント的人倫原理に向けて倫理的な人間関係を開き続ける」営みの一環である訳です。

この様に、恋愛と言う営みと、結婚(制度)と言う営みとは、全く真逆の性質を有しています(基本的に恋愛と言う営みは「社会の外側にある」故に、そもそも結婚制度に限らず「恋愛」と「社会性」とは「水と油」であると考えるべきです)。

この事からしても、「恋愛の延長線上に結婚がある」と言う形で、恋愛―結婚をまるで「営みとして似たベクトルを持つもの」であるかの様に結び付けようとするのには論理的に言って元々かなりの無理・矛盾があります。

 

学術的に言えば、この「恋愛の延長線上に、或いは恋愛の終着点として結婚がある」と言う発想は「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と言う概念を以て説明されます。これは一言で言えば「『愛―性―結婚』は三位一体である」とする考え方の事で、18―19世紀に西欧社会で誕生した「ロマンティック・ラブ」概念が下敷きになって生まれたものです。

これが戦後の日本にも流入して見合い婚が主流だった所が恋愛結婚主流に置き換わって行く訳ですが、現代日本においてはある程度自明なものとして受け止められている恋愛と結婚を結合させるこの考えは寧ろ、西欧近代に発した特殊なものであり、恋愛と結婚は歴史的には明確に別物だったとされます。

(参考にした論文:山田陽子「恋愛の社会学序説 : “コンフルエント・ラブ”が導く関係の不確定性」)

これを書きながら色々調べていて知りましたが京都大卒の著名な社会学者である上野千鶴子氏も1987年の著書「『私』探しゲーム―欲望私民社会論」の中で「『愛―性―結婚は三位一体』とするロマンティック・ラブ・イデオロギーは、本来結びつくはずのないものを無理に結びつけた『不自然』がある」と書いています。

 

では何故「本来結びつくはずのないものを無理に結びつけた『不自然』がある」筈の恋愛・結婚が結び付けられた「恋愛結婚」概念が、西欧近代に生まれ更には社会に浸透したのか、と言うその経緯・理由に関しては既に様々な研究が為されているとの事なのでここではその点には深入りしませんが、「恋愛結婚」と「(西欧に始まる)社会の『近代化』」とが密接に関連しており「恋愛結婚概念を支えるロマンティック・ラブ・イデオロギーが広く大衆的に共有される事への社会・政治的要請が近代化に伴い生まれて来る・或いは生まれて来た」と言う面がある事は間違い無いと言えます。

 

そして、これは前述の山田陽子氏の論文においても上野千鶴子氏の著書においても同様にですが、そのロマンティック・ラブ・イデオロギーは今「解体しつつある」と言う旨が論じられています。

因みに山田陽子氏の論文の表題にある「コンフルエント・ラブ」もそれに関わる言葉で、「ロマンティック・ラブの理想たる『愛―性―結婚の三位一体』が成立しなくなった後に生まれつつある新しい愛の形態」を指すものとしてイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの1992年の著書において提唱された概念です(日本語に訳すと「融合する愛」とか「合流する愛」となります)。

上野千鶴子氏の著書も1980年代後半の物である事からしても、アカデミズムの界隈ではもう随分と前から「恋愛結婚概念の破綻」が議論されて来ている事、そしてそれは日本のみならず世界的なテーマとして論じられている事、が分かります。

 

 

話を現代に移すと、日本でも少子化・非婚化・晩婚化が社会問題として取り沙汰され始めて久しいですがそれは少なくとも先進諸国に限って言うなら、2023年現在世界的に基本どこでも同じです。婚姻率と出生率の低下、そしてその背景にある若者の恋愛・性愛の営みからの離脱、と言う現象が多かれ少なかれアメリカでもヨーロッパでも中国でも韓国でも軒並み生じています。

 

勿論国や地域毎に事情は大きく違う上にそこには当然社会・文化・経済的条件と言った諸要因が複合的に絡むので到底一概には論じられない訳ですが、それにしても何故世界中で一様に「非恋愛・性愛化」「非婚化・少子化」が生じているのか、また違った角度から言えば「ロマンティック・ラブ・イデオロギー=恋愛結婚イデオロギーの解体」が起こっているのか。

 

現在グローバルに共有されている社会問題として、世界的な格差と不平等の問題、地球温暖化と気候変動等の環境問題と言った辺りは直ぐに思い浮かびますが、これらに起因する社会不安はその性質上人々に一定の将来不安をも齎(もたら)します。それ故昨今「人類社会は不公正で、将来の地球環境の見通しも暗い、そんな現在の社会の延長にある世界を彼女彼等が生きる事になるのを分かっていてもなお我々は子孫を残すべきなのか?」と言った類の、現代を生きる人類の生殖行動の是非に関する議論は様々な方面で行われており、「反出生主義」と言った言葉もここ数年良く取り上げられています。

 

日本社会に関して見ても、経済的衰退等の社会情勢の変化に連れて、結婚し子供ができ幸せな家庭を営み………と言った人生が大方普通であったろう皆婚社会と言われた時代はもう遠い昔となり、「結婚するのが普通」と言った社会通念は既にかなり薄れていてかつ現実に生涯一度も結婚しない人の割合は凄い勢いで増加し続けていることも統計的に示されています。人生において結婚は決して当たり前の事では無くなっていて、当然子供を持つ事もまた然りです。

 

この様な社会状況は、現在先進国と言われている国々の間に概ね共通する物かと思いますが、この事は少なくとも一昔前までの、「近代化〜産業化〜物質的豊かさの享受」と言う多くの国々が経験して来た一連の(大きく見れば)成長・右肩上がりの時代を生きた人々に比べれば、「成長では無く持続可能性」が謳われる現代を生きる人々の結婚及び生殖に対する意識は「人生である程度自明或いは自然に経験する出来事」では無く寧ろ「人生における飽くまでも選択肢の一つ」でしか無くなって来ている、と言う事を示します。

人は「自明或いは自然な事」に対しては基本一々「意味」を問いはしませんが、選択肢つまり「選んでも選ばなくても良い事」に対しては間違いなくその「意味」を問います。何故それを選ぶのか、それを選ぶ事の及び選ばない事の意味は何なのか。現代では結婚(及び生殖)する事の「意味」が少なくとも以前よりは問われる様になっています。

それは別の言い方をすれば「社会と結婚の境界が意識される」事でもあります。見てきた様に結婚とは「制度」であり、制度とは必ず「何らかの社会的合理性に向けられた物」として理解されるので、「結婚する事の意味を問う」とは即ち「『結婚制度』が『どのような社会的合理性に向けられた物であるのか』を問う」事と同義です。

 

ですがそこで思い出されるべき事は、そもそも「恋愛結婚イデオロギー」は「結婚する事の意味を問わない」事によって成立していた側面がある、と言う事です。

 

ロマンティック・ラブの論理によって、恋愛と言う営みが持つ幻想性の内側或いはその延長線上に「結婚」概念が位置付けられる事によって、本来”制度でしか無かった”所の「結婚」は「恋愛と言うファンタジーを作る一構成要素」としての側面を強める事になり、反対に「結婚の制度性」は余り意識されなくなります。つまり「制度としての結婚」の「意味性」が、「幻想としての恋愛」の「非・意味性」に回収されます。

 

ある年齢を過ぎても結婚せず独身で居る事が罪となり得る社会が過去に存在していた事からも分かる様に、「社会成員による結婚・そしてそれに付随する生殖」はその社会及び共同体の拡大・維持にとって言うまでもなく必須の事柄であり、その意味で(また社会秩序の維持と言う観点からしても)一定の婚姻率を確保して置く事が社会には求められる訳ですが、「基本的人権」と言う概念を析出するに至る様な「近代以降の社会」においては、統治権力が何らかの仕方で人々に結婚の強制や勧奨を行う等と言った事は基本的に不可能になります。

そこに、時代の要請に応じる意味合いも持ちながら、先述した様な「『制度としての結婚』の『意味性』を、『幻想としての恋愛』の『非・意味性』の内に回収する」と言うメカニズムを持った「恋愛結婚イデオロギー」が、「『結婚の制度性』とは無関連に或いはそれを余り意識しないままに、人々が結婚(及び生殖)に動機付けられて行く為の近代的な社会装置」として生まれそして機能した、と言う側面は、少なくとも統治権力或いは近代国民国家統治の視座からすればあったであろう事は指摘できます。

 

いずれにせよ、ロマンティック・ラブ・イデオロギーはその様に「結婚の制度性や結婚の意味を問わない事によって初めて成立する」と言う側面を、又逆に言えば「人間が結婚(及び生殖)を為す事の理由及び意味の主題化・意識化を社会が多くの場合人々に要請しない時代背景(言い換えれば結婚及び生殖の営みが其れ自体として「善き事」であると前提不問的に理解される社会状況)を持つ時期においてのみ成立する」と言う側面を、持つと言えます。

 

しかしその様な時代(近代)が終わり、以前よりも人々が結婚の意味を問わざるを得なくなる状況が生まれた現代にあっては、先述した様な「社会と結婚の境界が意識される」事態が生じます。

そして「『結婚制度』が『どのような社会的合理性に向けられた物であるのか』を問う」そのプロセスにおいては当然「結婚の制度性」が際立つ事になりますが、その事は人々に「『恋愛』と『制度たる結婚』を結び付ける恋愛結婚イデオロギーがそもそも孕んでいる矛盾」への気付きを齎し、それ故今度は「結婚と恋愛の境界が意識される」事態も生じる事になります。

 

「結婚と恋愛の境界が意識される」事について少し込み入った議論をします。

「恋愛」と「結婚」が元々は性質の大きく異なる物であり歴史的にも別物として扱われて来た、と言う事はここまで見て来た通りですが、ただし恋愛と結婚を一繋ぎとする「恋愛結婚」概念が生まれそれが一般的になった事の帰結として、現代において使われる「恋愛」概念には「結婚」概念の在り方に依拠する事で初めて成立している様な場合も見られます。どういう事か。

 

例えば「恋愛関係にある」事を意味するものとして一般的に使われる「付き合う」と言う言葉は、「(日本において)結婚が一夫一婦制である事」を前提にしないと”多くの人がそう捉えているであろう”その意味の理解が難しくなります。

或いは「恋人」概念と俗に使われる「セフレ(セックスフレンド)」概念とを区分する事もまた「結婚」概念を前提にしなければ困難です。

一般に「恋人」概念にはポジティブな、反対に「セックスフレンド」概念にはネガティブな響きがありますが、その際「恋人」概念には宿り「セフレ」概念には宿らない倫理性の源泉もまた直接的には「結婚制度に宿る倫理性」にあると言えます(因みにその「結婚制度に宿る倫理性」の源泉は「社会に宿る倫理性」にあり「社会に宿る倫理性」の源泉は「宗教的世界観に宿る倫理性」にある、と言えます)。

即ちこれらの場合には「恋愛関係と言えるか否か」が「(潜在的にでも)結婚が前提されているか否か」に規定された、「結婚を前提として初めて成立するものとしての恋愛」と言う恋愛概念の在り方が認められる、と言えます。

 

しかし同時に、全く逆に(元々の「恋愛」概念がそうである様に)それが必ずしも「結婚」を前提とせずに成立している場合もいくらでもある事も明白です(「結婚を前提に付き合う」と言う表現においては、「付き合う(=恋愛関係にある)」と言う事態が「そもそも結婚意志の有無とは無関連に成立するもの」として理解されていると見做せます)。また「恋愛」概念の対象が人では無い場合を容易に想像できますが、その様な場合にも「恋愛」概念の延長に「結婚」概念があるとは言い辛くなります。

 

やや話が複雑になりましたが、これらの議論から分かるのは、「結婚」とは無関連な「恋愛」概念の在り方と、恋愛結婚イデオロギーが要請する「結婚に接続されるべきもの」としての「恋愛」概念の在り方とが混交する様になった結果、現代における「恋愛」概念は極めて多義的な(意味的に広い幅を持った)ものとして現れている、と言う事です。

そしてその事はまた、事実婚や同性婚を巡る動きに示される様な現代の「結婚」概念に生じている様々な意味的拡張、と言う事態と相互にリンクしていると言えます。

 

話を戻すと、この様に「結婚と恋愛の境界が意識される」事は「現代における『恋愛』概念の帯びる意味合いが極めて多義的となっている事」を浮かび上がらせますが、その「『恋愛』概念の多義性」は続けて「ではそもそも『恋愛関係』とは何か?」を人々が問う事態を、即ち「恋愛関係と非・恋愛関係の境界が意識される」事態をもまた更には開くのです。

 

「愛―性―結婚」を「三位一体」とする事で、「愛(=恋愛)」の”非・意味性”の内に「性(=生殖)」及び「結婚」の”意味性”を回収する機能を有して、近代の時代背景と共に生まれた恋愛結婚イデオロギーの作り出す「『愛―性―結婚の非・意味化』の思考回路」を”逆流する”ものとしての、

「結婚及び生殖」が「人生における飽くまでも選択肢の一つ」でしか無くなる社会情勢の変化に端を発し、現代における人々に必然に齎される「社会と結婚の境界が意識され、結婚と恋愛の境界が意識され、恋愛関係と非・恋愛関係の境界が意識され………」と言う「『愛―性―結婚の再・意味化』の思考回路」が、恋愛結婚イデオロギーの”以前までと同じ様な形での”存続を決定的に困難にしている、と言う風に言えるのでは無いでしょうか。

 

 

昨今、性・ジェンダーを巡る活発な議論が世界的に為されているのは周知の通りですが、それらの問題と「恋愛・結婚」とが密接に関連している事は明らかであり、その意味で今回ここで論じて来た事は性・ジェンダーを巡る議論にも繋がるものであると言え、何か物を考えるきっかけになればと思います。またそれは結婚制度の在り方を巡る事実婚や同性婚等に関する議論についても同様です。

 

「愛―性―結婚の三位一体」がロマンティック・ラブ・イデオロギーだとすれば、その解体とは即ち「従来までの一繋ぎ的な愛―性―結婚関係の崩壊及び変化」を意味します。

また愛―性―結婚の内の「性」についてですが、20世紀後半の「性革命」と言われる時代を経た現代においては、「性」を考える際「生殖機能としての性」と言う理解に加え「快楽装置としての性」としてもそれを捉える事が適当かつ様々な社会事象を考える上でより有効となるのではないか、と感じます。

そうすると

愛―(生殖機能としての・快楽装置としての)性―結婚

と言う図式になります。

 

アンソニー・ギデンズが「コンフルエント・ラブ」の概念で示そうとした様に「愛―性―結婚」の関係はかつてよりも非連続・相互独立化しつつあるとは言え、「愛―性―結婚の三位一体」たるロマンティック・ラブ・イデオロギーと言う思考及び規範に(それは20世紀末には既に「解体しつつある」と世界的に論じられ始めているとは言え)一定程度影響されて今日使われる「恋愛・結婚」概念はある、と言う事を踏まえた上で、

性・ジェンダーに関する、或いは恋愛と言う営み一般に関する、或いは結婚制度に関する問題を考える上での一つの視点として

 

愛―(生殖機能としての・快楽装置としての)性―結婚

 

と言う図式を用いてみると良いのではないか、と言う事です。

 

主には性的少数者の権利保護の観点から、結婚制度に関する議論・法改正が20世紀末から諸外国で広く行われて来た中で今に至っている(直近では台湾で2019年5月24日アジアの国・地域で初めて同性婚が合法化されています)訳ですが、「性」に関する事柄が良くも悪しくも様々な形で社会的関心と耳目を集める社会情勢となっている現在、「性」並びに「恋愛・性愛」の営みと深く関わりかつそれらの在り方に影響しさえするものとしての「結婚制度」が今後どうあるべきなのか、に関する議論は大きな又世界的な意義・価値を持つ所だと思います(絶対的政権与党の方針もあり「選択的夫婦別姓が云々かんぬん……」等と未だにやっている日本社会のハナクソの様な現状・民度からすれば日本で今日その種の議論をそれなりの真剣味を持って行う事への動機付けの調達はなかなかに困難である事は言うまでも無いにしても、です)。その事も今回この文章を書いた主な動機の一つです。

 

また、(これは「政治」「宗教」にしてもそうですが)「性」の様なある種の「生々しさ」を持った事柄に対しても、科学的・学術的・客観的視座を以て必要なコミュニケーションを行うと言う事に少なくとも積極的では無いと言って良い日本人一般にとって、その様な事柄を議論する事それ自体に一定の意義が認められるであろう、とも思います。

 

最後に補足になりますが、前編の記事で、以前読んだキリスト教「原罪」概念に関する論考にヒントを得て、人間は性的営みにおいて必ず「理性を失う」かそうでなくとも「客観的にそう見做される」と言う事に論理的な力点を置きながら、「何故人間の恋愛・性愛及び性交はある種の不可避的な反倫理性を持つのか」に関する見方を提示しました。

これは今回この一連の文章を書く中で性や恋愛・性愛に関する文献を様々読む中で感じた事でもありますが、「原罪」概念を展開したアウグスティヌスが男性であった事や私自身もまた男性である事を含めて、その議論の全体が暗に「男性の身体性を前提にして」、言い換えれば「女性の身体性が幾分か無視された形で」構築されているのではないか、と言う印象を受けます。

 

例えば生殖・性交において人間が正に「理性を失う」と言える様な性的快楽の極点、つまりは性的オーガズムと言う言葉が一般に男性身体にとって何を意味するのかは殆ど明白ですが、それが女性身体にとって何を意味するのかは男性の場合程には明白ではありません。

 

また、ナポレオンの弟のひ孫に当たるマリー・ボナパルトと言うフランスの作家・精神分析学者がおり彼女は「女性の性欲においてクリトリスの果たす役割」についての研究で特に知られています。興味があれば調べて頂きたいのですが彼女の書いている内容は「(生物学的な意味での)女性身体と言うメディアに媒介されて世界を知覚する事」と「男性身体と言うメディアに媒介されて世界を知覚する事」との間に生じ得る差異が、人間の「性」に関する言論・認識に一定の影響を与えるのではないか、と言う事を思わせます。

 

個人的にこのマリー・ボナパルトの残している研究内容はとても興味深く感じましたが、その意味でも、女性の身体性・男性の身体性と言う点についてもし何か関心のある方がいらっしゃれば是非議論したいなと思う所です。

 

 

上代の日本語を研究していると言う大学院生のYさん、そして民俗学の授業で習った女性優位の社会の話等を教えて下さった?さん、ありがとうございました!お二人が以前話に付き合ってくれたお陰で頭が整理でき恋愛・性愛について書く気になれました。また機会があればお話しましょう!