学問の自由と大学の自治について

学問の自由と大学の自治について

 読者の皆さんこんにちは。大学問題について日々議論している京都大学東京大学同好会の会長です。今回は表題の通り「学問の自由と大学の自治」について書きたいと思います。

 さて今回私が寄稿させて頂くこの記事は、まだ大学を知らない人たちには難しい内容かもしれません。ですが、未来の社会を担う皆さんに学問の自由の大切さが少しでも伝われば嬉しいです。

 まず、そもそも学問の自由とは何かですが、これは憲法23条によって規定されているもので①学問研究の自由、②研究発表の自由、③教授の自由によって構成されるとされています。そして大学の自治が学問の自由を守るためにあるとされています。しかし大学と言うのは学問の自由を守るだけではなく、そのほかの役割もあります。学校教育法などによりいろいろと規定されているのですが、簡単に一言で言うとすれば「社会貢献」です。では具体的に社会貢献とは何かというと、判断が難しいため一概には言えません。実は大学と言うのは何か社会貢献という名の元アヤシイ研究者を匿っている機関となのです……!

 2003年の国立大学法人化までは概ね国立大学と言うのはこんなアヤシイ機関でした。象牙の塔と揶揄されるくらいでしたが、閉じられた環境ではよくないと言って、大学の運営に外部の人がかかわるようになりました。また、競争的資金の導入と言って、研究者たちに成果を出させるように競争もさせ始めました。ここでちょっと考えてみましょう。「成果」って何でしょうか。判断が難しいため例えノーベル賞受賞者でも明確な回答はできないでしょう。以前はこの判断の難しさを肯定した上で全ての学問の価値は等しいとされてきました。ですが今「成果」というのは何年以内にどれくらいのお金になるかどうかという点で主に評価されるようになりました。学問の価値が金銭的価値へと置きかわってきたのです。

 別にうまく成果が出るならばいいのではないかと思うかもしれません。ところが何十年もかけるような研究はたくさんあります。今すぐに評価されるものばかりではないのです。ノーベル賞ものの研究だって最初はどんな成果が出るかなんてちゃんと分かっていません。ですが、今風の「成果」というのは何年以内に何年という基準ができてしまったため、その「成果」を得るためには「すぐに結果の出る研究」をしなくてはいけないようになりました。これじゃ長期的な研究を必要とする学問がされなくなり、学問全体が衰退してしまいます。

 この衰退を防ぐための手段が「大学の自治」です。外が成果を出せとかそんな研究はやめろと言ってきても「大学の自治」でそれらの研究は守られてきたわけです。ですが(本日3回目)、大学の自治は従来では教授会の自治と同義とされていましたが、学校教育法の改正によって学長の権限が強化されて予算など多くの権限が学長や理事会のものになりました。この理事会には外部委員と呼ばれる企業の社長や文科省の役人、大学が所在する場所の市長らが過半数を占めるようになっています。学問研究に精通していない過半数の彼らが、彼らの視点で大学を運営するようになってきているわけです。大学の自治も何もあったものではないですね。彼ら素人が学問の価値を判断するようになったのです。むしろ素人が学問の価値を分からないからお金の価値観を導入したとも言えるでしょう。

 また、「社会貢献」という面でも大学の運営に外部の人が関わることも良いとは言えません。そもそも大学の役割は社会への貢献と言われているのですが、アメリカの州立大学では貢献対象が市民とされるため理事が州議会によって選ばれ、私立大学では寄付者や創立者が理事になるなどと貢献対象が比較的明確なためそれに沿った理事会運営がされています。日本の場合はどうでしょう。貢献対象はもちろん納税者ですし、日本の国立大学の理事は納税者の一人ではあるでしょうが、その他大勢の国民の代弁者でしょうか。そうとは限りませんよね。日本の国立大学の運営は特定の少数者によって担われているわけです。更に彼らが社会貢献への明確な意志があるかどうか、どういった選出方法を取っているのかは不透明です。つまり、今の大学は学問の自由を守るとは限らない人材によって学問の自由を守るべき大学が運営されているのです。この現状は果たしていい方向に働くのでしょうか。

 まだまだ書き足りないのですが、大学と言うものを知らない人たちでも未来の日本社会を担うというのならば、その社会に貢献するはずの大学の現状を知っておくのもいいのではないかと思い、重要な論点だけ掻い摘んで書いてみました。学生は大学生活を満喫するも自由、学問をするも自由です。そんな生活のスパイスとして、この記事が学問の自由や大学の在り方について考えるきっかけとなれば嬉しいです。(寄稿:京都大学東京大学同好会会長)