歩けメロス

歩けメロス

メロスは歓喜した。かの邪知暴虐の王が、信頼を、忠誠を、そして友情を認めたのである。三日三晩、王城では宴が開かれた。呑み、食い、唄い、踊り、騒ぎ、みなが狂喜乱舞した。ひとしきり満腹になると、順に厠に立ち、口の奥にクジャクの羽を突っ込んですべてを吐き出した。そうしてまた新しい料理の味を楽しむのである。海の幸、山の幸。酒池肉林で鯨飲馬食。まさに狂宴であった。

しかし4日目の朝に、事件は起きた。
メロスが、歩けなくなったのである。

寝床から踏み出す、まさにその一歩が力強く地面を蹴りだした。もう一方の足も同様であった。右足が出て、左足が出て、また右足が出て、これで走れるというのは当たり前であった。しかし、足が止まらないのである。とうに昼を過ぎた今でもずっと走っているというのである。

王は、はじめ笑っていた。
「はっはっは、メロスの奴め。あれだけ走っておきながら、まだ走りたりないというのか」
近従の大臣も、つられて笑った。

しかし王の表情は、夕方になると固くなった。
「なに、メロスがまだ走っているだと?誰かが命令したのか?違う?ではなんのために走っているのだ!」
メロスはどうやら、神経病を発症したようである。自らの筋肉を、心肺を、制御できなくなっているようである。セリヌンティウスが馬で追いかけて食事を届け、水を飲ませ、そうしてメロスは狂ったように走り続けた。

翌朝も事件は起きた。
そのセリヌンティウスが、歩けなくなったのである。

やはり寝床から踏み出した一歩が、地面を強く蹴りだした。それから、日が高く昇った今でも足が止まらないのである。
「メロスよ、私も歩けなくなってしまったようだ」
「セリヌンティウス、お前もか」
2人は山道を並んで走った。山はすぐに越えてしまった。野原を駆け抜け、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、それでも止まらなかった。2人は、満身創痍であった。服は破れ、髪は乱れ、呼吸はできず、血を何度も吐いた。それでも足は2人を走らせた。

国境のはずれまで走ってから、メロスとセリヌンティウスは来た道を引き返し、王城まで帰ってきた。もはや、2人は別人であった。長時間走り続けるうち、両足はまさに大木の幹のよう、胴体は牛のようになっていた。目は血走り、歯を食いしばり、全身に太い血管が浮き出ているその形相は、まさに鬼であった。露店を風のように走り抜けると、両手でパンと肉を鷲づかみにし、むさぼるように食った。人々は、彼らを恐れた。

日が沈み、夜になっても2人は走り続けた。メロスにとっては2日目の夜である。しかし意識が朦朧としても、まぶたを閉じかけても、足は止まらない。名馬は1日で千里を走るというが、彼らは1日で万里を走った。

3日目の朝になっても、まだ2人は走っていた。そして王は、怖くて寝床から起き上がることができなくなっていた。
「あんな鬼のようなやつら、殺してしまえ」
王の命令はしかし、誰も聞いていなかった。王の家族はもう誰もいなかった。臣下も姿を消していた。市の人々は病気を恐れ、家の戸を固く閉ざした。メロスとセリヌンティウスの2人だけが、動くもののすべてであった。そして、彼らは黒い風のように走った。
「メロス、何とかならないものか。お前が先に発症したのだ、治るならお前が先だろう。歩いてくれ!メロス!」
2人は山賊のもとに向かった。かつてメロスを襲った山賊である。

「やい、メロス!この前のお礼をさせてもらおうじゃないか」
山賊がそれを言い終わるときには、メロスの姿はもう見えなくなっていた。
「ええい、まるで話にならん。馬をひけ!」
山賊の頭領は馬に乗って、メロスを追いかけた。

「おい、頼みがある。その棍棒で、私の足を打ちすえてくれないか」
ようやく追いついた山賊に、メロスは言った。
「そうか、お安い御用だ」
馬の上から体を乗りだし、頭領は棍棒を振るった。しかしメロスの足はあまりに太かった。大木の幹を棍棒で打っても手が痺れるだけである。メロスはびくともせず、頭領は反動で馬から落ちそうになった。

「もう知らん。お前らなんて鬼ヶ島にでも行ってしまえ!」
山賊はそう言い捨てて、帰っていった。
「はて、鬼ヶ島とは何であろうか」
メロスが問うと、セリヌンティウスは答えた。
「なんでも海を渡った向こうに、大きな島があるらしい。昔は鬼が住んでいたのを、誰かが退治した。しかし漁師によると、それ以降あの島からは異臭が漂い、昼には爆発音が、夜には雷鳴が聞こえるようになったという」
「異臭。爆発音。雷鳴。いったいあの島では何が起きているのか」
「分からぬ。誰にも確かなことは分からぬ」
それを聞いたメロスは、藁にもすがる思いでその島に行くことにした。セリヌンティウスははじめ反対したが、しかしいつまでも走り続けるわけにはいかない。しぶしぶ了承した。

2人はすぐに海岸に到着したが、舟は一艘も見当たらない。王城で奇病が発生したというのが噂になって、漁師もみんな家に閉じこもり、舟を蔵にしまい込んでいるのである。
「しかたない、泳いでみるか?」
メロスもセリヌンティウスもこれまで泳いだことがなかったが、巨大な体と人間離れした心肺機能を持つ今なら、どこまででも泳げそうな気分であった。もはや足はもちろん、腕だって止まらなくなっている。

そして泳ぐこと、三日三晩。

鬼のような体躯をした2人をしても、そこまでの遠泳はさすがに応えた。肩でぜいぜい荒い息をしながら浅瀬に足をつくと、そのまま浜辺へと走っていく。
「やれやれ、これほど疲労困憊しているというのに、まだ足は止まらないのか」
2人はそう言いながら、島のなかでひときわ高い場所を目指して走った。

「おい、なんだお前ら」
2人が崖の上に到着すると、そこには男が待ち構えていた。
「お前ら人間か?鬼か?」
しかしその問いかけに答える間もなく、メロスとセリヌンティウスは男の横を走り去ろうとした。

ビュンビュン

すると2人の背後から、突然矢が飛んできた。

グサッグサッ

矢は、見事にメロスの両足のひざ裏に刺さった。メロスは思わず地面に倒れこんだ。
そしてメロスの足は、なんと動きを止めた。
「よいか、これはアキレス腱といって、これが切れると足の先は動かなくなるんだ」
男はそう言いながら、あたりに生えている雑草をむしり取ってメロスに嗅がせた。
「見たところお前は神経に異常が出ているようだ。おおかた何か変なものでも食ったんだろう。しかし良かったな、この島では放射線を使った治療ができる。スタップ細胞を使った再生医療もできる。鬼専用の病床だってある。なんとか治せるだろう」
しかし雑草の臭いはあまりに強烈で、その説明を聞くことなくメロスは気絶していた。

目が覚めると、メロスは車いすに座っていた。そして傍らには、セリヌンティウスが立っていた。体つきはいたって普通の人間である。そして何より、足がじっとしている。
「メロス、すまなかったな。この島にはモルヒネが山ほどあるというのに、お前だけは荒療治をしてしまった。まだ少し痛むかもしれないが、もうしばらくの辛抱だ」
男が言った。
「おいメロス。お前、立ってみろよ!もう走り出すことはないぜ!」
セリヌンティウスに言われて、メロスは恐る恐る地面に足をつき、そして立ち上がった。
「立った立った!メロスが立った!」
セリヌンティウスは、飛び上がって喜んだ。
「まったく、私は赤ん坊ではないぞ」
患者は、ひどく赤面した。

めでたし、めでたし。

参考文献
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html

解説
https://docs.google.com/document/d/1nJeoVMIzK6t0dYpAKoqjDJyEzaxVNArxtxLUB0ea_HE/edit?usp=sharing

過去の作品「柿太郎」
https://senmanben.com/20200831/718/