アニメにおけるヤングケアラー表象、どう思う?

アニメにおけるヤングケアラー表象、どう思う?

「五等分の花嫁」「たまこまーけっと」「世界一初恋」「となりのトトロ」…
そこに描かれる、家事や介護を担う子供たち。この記事では、ヤングケアラーとも称されるような子供たちがアニメにおいてどのように表象されるのかを検討する。作品に罪は全くないけれど、その描かれ方には違和感を抱くのではないだろうか。(この記事は10分で読めます。)

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その1:五等分の花嫁

2019年に第1期が放映された話題のラブコメ「五等分の花嫁」(→作品情報)。貧乏な生まれの男子高校生・上杉風太郎が、5つ子の女子高生の家庭教師を務めるところから話が始まる。五姉妹のキャラクターがそれぞれ魅力的で、全員に根強いファンがいるはず。筆者は一花と三玖が付き合えば良いと思っています。

しかし本記事で取り上げたいのは、5つ子ではなく主人公の妹・上杉らいは。
社交的で笑顔の可愛い女児。小学6年生にして家事全般をこなし、兄の帰りを手料理で出迎える。主人公である兄への信頼と愛情が随所に感じられ、偉いことに言葉でもそれを伝えている。実際作中でも「お兄ちゃんには良いところがいっぱいある」的なセリフがあり、小学生とは思えないほどの母性が感じられる。

そんな彼女が一際注目されるべきが、林間学校のエピソードである。風太郎と五姉妹が林間学校に赴く朝、らいはが熱を出してしまう。にもかかわらず、自分の看病でバスに乗り遅れてしまいそうな兄を心配して「私のことはいいから」みたいなことを言う。健気か。あまつさえ、林間学校中の兄の無事を祈ってミサンガまで結っていた。天使か。

「上杉らいは」の描かれ方

厚生労働省は「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話を、日常的に行なっている子ども」のことを「ヤングケアラー」として説明している。

上記の意味で、らいはは完全にヤングケアラーであろう。上杉家において両親の描写はほとんどなされず、家事は基本的に彼女が担っている。家事だけでなく、兄を信じ、褒め、優しく接するという心理的ケアの役目も果たしているように思われる。

「上杉らいは」は、典型的な「主人公に都合の良いように世話をしてくれる」女性であり子供として表象されている。そんな気がする。めっちゃ良い子。しかし個人的にはこう感じる。

良い子すぎて気持ち悪い

その違和感の原因というか誘因として考えられるのは、当作品が少年誌に掲載されていたようなラブコメであること。そして男性主人公の妹という、いわば「そうなりがち」な立ち位置に設定されていることかもしれない。「男ってどうせ家事できるかわいい女子が好きなんでしょ、女子の価値をそこに見出してるんでしょ、妹なら雑に家事させときゃいいと信じてるでしょ」と思ってしまうのである。ではヤングケアラー表象の印象は、読み手の層主人公との関係性で決まるのだろうか。しかしそうとも言えない、というのが次の作品。

その2:たまこまーけっと

次に見てみるのは、2013年放映、京都アニメーションの金字塔「たまこまーけっと」(→作品情報)。舞台は「うさぎ山商店街」で、その商店街内の餅屋の娘・北白川たまこが本作の主人公である。明るくて人懐っこい、そして少し天然。黒髪二つ結びが似合う清楚なJKである。
商店街に起こる出来事や、彼女の同級生との日常会話でストーリーが展開していく。筆者は同級生のみどりちゃんが大好きです。

さて、この餅屋の北白川家、たまこが小学生の頃に実は母親が亡くなっている。たまこは母親の代わりに料理や妹の世話をこなしている。店の手伝いも率先して行い、父親や祖父をはじめ商店街の皆への愛嬌も抜群。良い子。めっちゃ良い子。

良い子すぎて怖いくらい良い子。人の悪口を言ったり、意地悪な言動をしたりする描写が一切ない。天使。

「北白川たまこ」の描かれ方

彼女もヤングケアラーと言えるだろう。生家では母親代わりに家事をこなし、商店街のこととなると大人に混じって試行錯誤頑張っている。その「良い子」さは「上杉らいは」表象と共通する点ではあるが、しかし両者は作品における立ち位置が異なる。たまこは主人公の妹ではない。主人公そのものである。

先ほどは主人公との関係性が、都合良いヤングケアラー描写を誘発するのではないかという仮説を立てたが、ここでは当てはまらない。主人公とはその心理描写が誰よりも詳細になされるはずのポジションであり、ありきたりな「良い子すぎる」表象はむしろなされづらいはずだ。

しかし主人公・たまこの「良い子」度合い。この描かれ方はなぜだろうか。ひとまずは、以下の推測をしてみる。このアニメが男性向けの作品であり「黒髪色白で家庭思いの良い子なJK」が作品にとって求められていたのかもしれないという説。消費者ウケの良いキャラクターが必要だろうという点と作品構成上では良い子の方が適しているのだろうという点が盛り込まれた仮説である。この仮説を次の作品で検証してみよう。

その3:世界一初恋

続いて、腐女子で知らない人はいないと言っても過言ではないような、中村春菊原作のボーイズラブコメ「世界一初恋」(→作品情報)。2011年にアニメシリーズが放映されたのち、現在でもシリーズ展開が続いている。出版社・丸川書店エメラルド編集部に勤める編集者たちと、そこに所属する漫画家たちの群像劇である。そこで成立していくカップリングごとに「(キャラクター名)の場合」という形でエピソードが連なっている。

ここで取り上げたいのは丸川書店・営業部の横澤隆史と、少年誌『ジャプン』編集長の桐嶋禅とのカップリング。2人のエピソードは、2014年に劇場版「世界一初恋〜横澤隆史の場合〜」として上映された。

作中で明かされることだが、桐嶋には一人娘・日和がいる。妻は他界。日和は登場回数こそ少ないものの、父親との2人暮らしの中で家事をこなしていることや、その素直さや明るさ、父親へ懐いていることは十分に伝わってくる。

「桐嶋日和」の描かれ方

彼女は今までに述べたヤングケアラーと同様に「良い子」として表象されている。しかし今までと異なるのは、彼女が登場するのがBL作品であるということ。これは先に述べた仮説のうち、「消費者ウケが良い」という観点を否定するものに思える。視聴者の大半が若年層の女性であることを考えると、少女が父親のために「良い子」している描写は望まれるものではないはずだ。

ではもう一つの点、「作品構成上で適していた」という仮説。日和についてはこちらの方が当てはまるように思える。横澤と桐嶋の間には、仕事上の接点はあまりない。そこで物語の展開を役立つのが彼女の存在なのであろう。

実際、桐嶋が残業時、「娘を一人にさせておくのが心配だから自宅にいてくれないか」と横澤に頼んだり、日和がバレンタインチョコレートを父親に手作りするのを横澤が手伝うという場面がある。このそれぞれが、自宅でのラブシーンやら何やらに繋がる導入となっている。これを考慮すると、日和は横澤ともすぐ打ち解けるような明るい子でなければならず、父親思いの優しい子でなければなれなかったのだろう。

まとめよう。ヤングケアラーが「良い子」として都合よくそして気持ち悪く登場する時の条件がいかなるものだったのかを確認してきた。まず、主人公との関係性という説が、「五等分の花嫁・上杉らいは」を通して見えてきた。しかしこれは「たまこまーけっと・北白川たまこ」によって否定される。彼女は主人公そのものであるのだから。では作品の視聴者との関係性という説はどうか。実際、先の二つの作品は少年・青年をターゲットにしたものである。説得力がある仮説である。しかしこれもそうとは限らない。その判例が「世界一初恋・桐島日和」であろう。では最終的に、残った条件は何か、私が考えるにそれは、作り手の都合である。作品構成上で適しているかどうかという条件である。

その4:となりのトトロ

以上、ヤングケアラーが「良い子」として表象されることには、作品の都合が暗に影響しているのだろうという結論を出した。これは今までに取り上げた他の作品にも共通して当てはまる条件に思われる。

これまで挙げてきたような描かれ方、正直なところ筆者は違和感を抱いているというか、あまり好きではないなと感じています。作品としては楽しめるし、キャラクターに罪はないのだけれど、なんだか嫌な感じがする。何が問題なのだろうか。

このもやもやを考えるために、逆に、ヤングケアラー表象としてなんだか素敵だなと思えた作品を挙げてみたい。先程までに扱ってきたものとは年代が異なるが、1988年制作・スタジオジブリの名作「となりのトトロ」(→作品情報)。小学6年生のメイと4歳のサツキが、父親と田舎の一軒家に引っ越すところから始まる物語である。作中、彼女たちの母親は長く入院しており、掃除や洗濯、弁当作りといった家事はメイが中心に行なっている。

「草壁メイ」の描かれ方

彼女が今までのヤングケアラー表象と異なるのは、「良い子」であるだけでなく喜怒哀楽がちゃんとあるということだ。嫌な同級生男子にはべーっと下を出すし、妹に感情的に怒ってしまう。母が不在である不安からおばあちゃんに泣きついてしまうシーンも描かれる。

メイの描かれ方を通して、今までの「上杉らいは」「北白川たまこ」「桐嶋日和」表象の問題点が、朧げながらも分かってきた気がする。それは、あまりにも都合が良すぎるということである。普通小さい子供は完璧に家事をこなしたり、家族のために自己犠牲を厭わなかったりすることは、ない。というかあってほしくない。もっとわがままに、気ままに、奔放に生きていて欲しい。その自由のために危険から守り、何かを押し付けないように尽力するのが私たち大人の役割だと思う。

しかし上に挙げたような作品においては、逆に、作品の展開や物語の成立のために、子供が「良い子」として描かれている。それは一人の人間というよりまさにキャラクターであり、道具的・役割的なものであろう。
確かに、「となりのトトロ」においても、病気の母親と健気な娘たちという設定は、「お母さんと暮らせるように空気の綺麗な田舎に引っ越しをする」「お見舞いにとうもろこしを持っていきたい」という、物語上重要な起爆剤に点火するための前提をつくる。その意味ではヤングケアラーとしてのメイは、作品上必然的に負わされた役割である。

しかしそんな役割のなかでも、メイは人間的に表象されている。都合の良い描かれ方ではなくて、彼女に敬意を払った、現実的な表象ではないだろうか。他にも「コクリコ坂から」の小松崎海など、ジブリにおける女性は同様に「都合が良いわけではない」ものとして登場するように感じている(私がジブリを贔屓目に見ているというところは大いにある…)。

まとめ・違和感の正体は

以上、いくつかの作品を取り上げながら、アニメにおけるヤングケアラー表象がどのようなものであったか確認してきた。

みんな良い子すぎて気持ち悪い

そんな個人的な違和感から出発した記事ではあるが、その原因を

①そのキャラクターの主人公に対する関係性(cf. 妹・上杉らいは)
②視聴者層との関係性(cf. 黒髪JK・北白川たまこ)
③作品構成上の役割(cf. 一人娘・桐嶋日和)

と仮定してそれぞれ検討してきた。
しかし結局、どれも十分条件的ではなかった。

違和感は端的に、そのキャラクターに喜怒哀楽といった人間的な感情の発露(cf. 草壁メイ)が見られないという点に起因したもののようだった。フィクションをつくるにあたって、ある程度キャラクターに役割を押し付けたり人間性を排除したりするのはやむなしだろう。むしろそれを極めることで魅力的なキャラクターが完成することも想定できるだろう。それでも、

それでも、ヤングケアラー的キャラクターに「良い子」のあり方を押し付けすぎるのは、なんだか嫌な感じがする。筆者の個人的な趣味嗜好の問題ではあるが、そのような表象のされ方には違和感がある。女児が家事することを黙認する雰囲気が、その作品にはある。そんな表象の仕方を作品として受け取った人々の心にも、ヤングケアラーを当然視したり美化したりもっと言えば助長したりする気持ちが芽生えてしまいやしないだろうか。

この記事を通して自分の違和感の正体をなんとなく同定できたので、私はかなり満足しています。読者に実りあるものだったかは知りようもないが。

もし自分にフィクションを創る機会があったら、その時はなるだけこのような表象の仕方は避けたい。そう思いながら記事を書き終える。
(なお、取り上げるキャラクターがみんな女の子であったことについては一縷の反省(ヤングケアラーは何も女性に限らない問題であるのだから)と、しかし「女の子がそういうキャラクターとして描かれがちなのではないか」という新たな仮説の存在を仄めかしておきたい。)

追記:
最近、ACジャパンがNHKと共同でヤングケアラーへのサポートの啓発cmを打っているよう。「ヤングケアラー」という概念が広まるだけでも、少し状況は好転すると思う。