客観??定量??それって正しさとは無関係ですよ??

客観??定量??それって正しさとは無関係ですよ??

データサイエンス全盛の令和の時代。世の中はエビデンス一色である。パワポにはグラフが踊り、本は部数で評価され、ビジネスパーソンは生産性で評価される。すべての意思決定においてその根拠(エビデンス)が求められる時代である。客観的かつ定量的な評価に基づきコスパよく行動したい自分の意思決定、ひいては人生そのものに安心したいという欲望がこの地上を覆っているのだ。

むろん、私も行動理由を明文化することには賛成である。勘・経験・度胸(KKK)でなんとななるほど人間界も自然界も単純ではない。行動基準と判断基準の体系化(学問化ともいう)と教育の需要は日に日に増している。

しかし、そこに客観性と定量性を求めるにあたっては、「んんんん???」と首をひねることが増えてしまった。データを読めないのか、それともあえて嘘をついているのかと悩んでいたのだが、どうやら一部の人間は「客観的に評価できるなら」「定量的に評価できるなら」「「正しい!」」と思うらしいのだ。そんなあほな

 

測定の「正確さ」と評価の「正統性」は無関係である。

例えば私が公共事業の担当者で、随意契約相手の業者を選ぶとしよう。ここで「私に送ったワイロの金額」で業者を選択する手法を選んだ場合、それは明らかに客観的かつ定量的な評価である。札束の数を数えればいいのである。誰でもわかる数値的なエビデンスを提示できる。しかしまた、明らかに正当な手法ではない

定量性のある間違った評価の図(いらすとや)

エビデンスの数値を正確に測定できることと、そもそも評価自体が正当であることは、独立した事象であり混同してはいけないのだ。

ここまで極端なことは…実はある。公開されている公的資料ですら、自身の説を裏付ける数値データをたくさんのせているにも関わらず、「そもそもそういう測定方法で評価することが適切かどうか」をきちんと論証している資料はあまりにも少ない。財務省ですらそんな感じではなかろうか。民間の広告ならなおさらである。例えば「このサプリを使うと1か月で20 Kg、運動も食事制限もなしで痩せました!楽に健康になれます!」という広告は多数あるが、そもそも「何もしていないのに体重が20 Kg減ることが健康と言えるのか」を論証している広告は見たことがない。現実にそんなやつがいれば、病気か、過度のストレスを疑うだろう。

 

数字の魔力から逃れるために

まずは定量データをとったり数字をこねくり回す前に「理念を語る」ことが大事である。定量的なエビデンスの有無をきめる前に、どういう理由で、何を、どうしたいのかを徹底的に議論するのだ。まず理想を全力で語り、その後現実とのずれを定性的に評価し、進むべき指針の候補を決める。そうしたナラティブな作業に全力を尽くすのだ。「どういう理由で」「何を」「どうしたいのか」、可能な限り明確に、具体的に、本音ベースで文書化するのがポイントである。ここでは可能な限り利害関係者全員の意見を聞けるようにすべきである。見当違いの方向に話が進むのを避けるためだ。

次に、どうしても決めきれないことや、定量化したい理想と現実のギャップに関して(例えば必要な資材の量・人間の数など)、理念に合わせた測り方を検討する。測定手法の正統性や、使うデータのまともさも議論する。できればデータのとり方に詳しい人から話を取ればいいと思う。エビデンスベースとやらを始めるのはそのあとでいい。

 

理念が先・定量が後なのだ。

 

この逆の最低最悪の手段として、「自分の目的のため、都合のいいデータを集めてそれっぽい資料を作る」方法がある。これは自分の理念を明確化するためには役にたつのだが、それ以外の役には立たない。例えば正しさは一切担保しないので、そこからさらに正しさを検証する必要があるのだ。昨今大学ですらそれっぽい謎主張をしてくるが、たたき台と正しい結論の区別もついていないものに関しては文句を言うべきだろう。

 

数字の海に溺れるな。理念を、徹底的に語れ。

 

徹底した議論のみが、意思決定の妥当性を担保する。賄賂の額で業者の質を測るような、そんな評価を数字でデコレーションするな。調査や評価は正しくつかってくれ。それが無理ならいっそ使わなくてもいいのですよ(それぐらいの自由度はあるだろう)。数字を無意味にこねこねするような、無駄な事務作業はみんなで断ろう。そして、見当違いの「エビデンス」とやらとは徹底的に戦うのだ。

 

(アイキャッチ画像・図表はいらすとやさんから使わせていただきました)