佐々木希の夫・渡部建の不倫騒動を受けて
―レンアイとケッコンについての試論―

佐々木希の夫・渡部建の不倫騒動を受けて<br>―レンアイとケッコンについての試論―
書いたひと: なかつか

 先日、地球一顔が可愛いことで有名な佐々木希の夫であるお笑いコンビ・アンジャッシュの渡部建の不倫が発覚し、世間を騒がせた。最近は有名人の不倫が発覚するたびにワイドショーなどで大きく取り上げられ、世間から激しく非難される。また、そういったたびに(先日の「テラスハウス女子プロレスラー自殺事件」なども相まって)世間からの非難が行き過ぎていることも、一方では問題提起されることが常である。行き過ぎた非難の背景には、人々の新型コロナ対策による自粛のストレスもあるのかもしれないが。私自身、自粛の暇を少しばかり癒すためにも、これを機に少し「不倫」ということについて、「恋愛」と「結婚」の違いということに注目して、考えてみた。現代における「不倫」を考えるためには、まず「恋愛」と「結婚」ということについて注意深く考え直さなければならない。

 まず、私の考えをはじめに明らかにしておくと、恋愛の本質は「非日常のゲーム(あるいは夢[1])」であり、結婚の本質は「日常の契約」である。そして、恋愛はイメージで表すなら、当事者である二つのベクトルが互いの方向を向きあっている状態(→←)で、結婚の方はむしろ二つのベクトルが同じ方向を向いている状態(↑↑)である。恋愛の根底には「相手を自分に取り込みたい(同化したい)」という欲望がある。これはつまり「あなたになりたい」だとか、「あなたを食べてしまいたい」(猟奇的な恋愛や、そうでなくとも恋愛にかんする表現としてしばしばこういった言葉が使われるように)というような欲求で、それは性欲にも直結する(「あなたとつながりたい/ひとつになりたい」)。恋愛におけるプラトニズムとエロティシズムの関係についてはここでは深く論じないが、「あなたのことをよく知りたい」に始まり、「ふれたい」「性的に交わりたい」といった恋愛にまつわるすべての欲求は、この欲望のあらわれである。そしてこの欲望は、当然の飛躍として、「相手を所有したい」という欲望に転化する。ここに最初の飛躍がある(飛躍(1))。この飛躍が起きていない状態の恋愛がいわゆる“一夜限りの恋”・アバンチュールといったものだろう。ただし継続して同じ相手と恋愛をおこなうのであれば、この飛躍は当然のものだと言える。ここで恋愛には(暗黙裡であれ、明示的であれ)互いを相互に所有(独占)しあうという「ルール」が生じる。「浮気」というのは、当事者の一方による、相互所有に反する「ルール違反」である。

 さて、さらにここに近代では「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」(結婚は恋愛の延長としてなされるものである/恋愛の究極形である、という考え)が加わった。ここに二つ目の飛躍がある(飛躍(2))。ロマンティック・ラブ・イデオロギーというのはあくまで近代以降の婚姻概念であり、「恋愛(ここでは“Fin’amors” フィナモール:至純の愛)」という概念がはじめて使われた中世のヨーロッパでは、この意味は「結婚以外の情事」を指した。当時はまさに現代における「不倫」こそが「恋愛」の定義だったのである。この飛躍によって、現代における「不倫」は、「浮気」の延長として捉えられ、さらに「恋愛」―「結婚」の関係と相似するようにして、その究極形(より劣悪な「ルール違反」)としてみなされるようになった。

 一方で、結婚は本来、日常における「契約」である。その意味から考えれば、「不倫」とは制度上の「契約違反」である。ただし、その「契約」の内容は各家庭によるだろう。家族の本質的な役割は生殖と生存(採食)と子育てであり、結婚は本質的に恋愛と独立であってもよいのだから、必ずしも婚外恋愛や婚外交渉(世間的な「不倫」の“判定”基準には「性交渉の有無」が採用される)を禁止する契約でなくてもよいし、その束縛の程度は当事者間の決定に委ねられるだろう。夫の風俗通いを黙認する妻もいれば、スワッピングをやる夫婦だっている。家族の本質的な役割は生殖と生存と子育てであるのだから、この契約の本質的な意味を考えれば、生殖が可能で、家族として生存(採食)および子育てに必要な両者の協力が互いに得られることが、この契約の最低限な必要条件になるだろう。つまり婚姻関係においては、生殖ができ、互いに協力し合って生きて、子どもを育てていくことができれば、その範囲内で婚外恋愛や婚外交渉(ヒトには避妊の技術があり生殖をコントロールできる)を認める契約があってもよいし、必ずしも夫婦間で恋愛をする必要もないわけである。現に昔はお見合い結婚や政略結婚などというものが普通だった時代もあり、もっと言えばどれだけの数の現代夫婦が継続的に「恋愛」関係にあるだろうか。脳科学的には恋愛感情は持って2~3年という話もある。あくまで恋愛の本質は「非日常性」なのである。本質的に長続きしえない(「ゲーム」にはいずれ飽きるし、「夢」からはいずれ醒める)。「恋」と「愛」の違いという話になるが、それでも夫婦というものには「愛」があればよいのである。フランソワ・ド・ラ・ロシュフコーという17世紀フランスの侯爵でありモラリストの言葉に「恋というものの成り行きをよくよく考えてみれば、それは、友情より、むしろ憎悪に似ている」(『人生の知恵』)という言葉がある。夫婦における男女間の「愛」はむしろ友情に似ていて、そこは「非日常」ではなく「日常」の世界である。ちなみに私は「愛」というものの本質は(友愛なども含め)、同じ時間を共有することにこそあり、それによってのみ形成される関係性だと考えている(だから、「愛」を発生させるには時間がかかるため必ず「恋」は「愛」に先行し、人々は経験的に恋が愛に「進化」すると錯覚しているが、本来は独立の概念である)。先に挙げたベクトルの比喩にかえって、(結婚に必要な)「愛」というものの正体に、同じ方向を向いた二つのベクトル(↑↑)の比喩が当てはまるとすれば、二つのベクトルの始点を近づけるために「時間の共有」が必要なのである。「恋」(→←)の成り立ちには本質的に「時間」は必要としない。ここでは、互いの方を向いたベクトル量がものをいう。また、「恋」的な感情の本質が「相手と同化したい」という欲望であるならば、「愛」というものはむしろ相手との差異を受け容れるためのものである。

 話が少し脱線したが、ロマンティック・ラブ・イデオロギーという「二つ目の飛躍」を抜きにして考えれば、「恋愛」と「結婚」は元来独立なものであることがわかるのではないかと思う。もちろんそれは連続であってもよいし、「恋愛の先に、その究極形として、結婚がある(べきである)」という考え方もまったく否定しない。ただし、結婚は必ずしも恋愛の究極形態ではないし、恋愛はけっして結婚の下位互換ではない。始めからロマンティック・ラブ・イデオロギーに則っていない、あるいは結果的にそうなってそれを受け入れた家庭があってもよいし(程度の差はあれほとんどの家庭はそういうものなのではないか)、結婚はあくまで恋愛とは独立な、生殖・子育てと生存のための「契約」なのである。もちろん両者は背反ではないので、重なっていてもよい。が、その内容は当事者間で決めればよいことであるから、世間の人達が婚外交渉=不倫という命題を他所の家庭にも適用して、報道があった芸能人を叩きたおすのは、そういった意味で本質的には正しくない(まあ気持ちはよく分かるが)。ロマンティック・ラブ・イデオロギーの考え方に毒されて、本来独立な「恋愛」「結婚」という二つのものを盲目的に一体化させてしまうことは問題である。恋愛結婚の方がお見合い結婚などと比べて離婚率が高い、というのはそこにある問題性の一つの証左かもしれない。

 さて、こんなことを考えているのは、なにもヒトの婚外交渉を擁護したいためでも、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを批判したいためでもない(相対化する試みではあったが)。私は霊長類の社会について研究をしていて、とりわけ単婚型の社会を形成すると言われているテナガザルの社会に目下興味があるが、彼らは雌雄のペアとその子どもからなる「核家族型」の集団を形成する。単婚と言われているテナガザルの「婚姻」はレンアイなのだろうか、ケッコンなのだろうか。そういうことに興味がある。「契約」などおこなわないはずの「劣等な(ヒト以外の)」動物である彼らの雌雄間の絆は、おもしろいことに、恒常的であるとされている。


[1] 本質的には「ゲーム」であると言ってよいのだが、それに没入する当人にとっては、「現実世界」との差異をうまく認識・対処することができず、『恋愛論』で竹田青嗣が指摘したように、まるで「夢」であるかのように現象する。恋愛の“夢”(ロマン)性、あるいは「物語」・ゲーム・スポーツなどに見い出される“夢”(ロマン)性については同書によく論じられているため、こちらを参考にされたい。

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