ねぇ、ヨシダ君
卑屈。
これは、簡単におちいってしまう、ここちのいいお家だわ。
とくに、自分に、自信がない時なんて、特にそうね。
言われてしまったことが、図星すぎて、もう、それを認めざる得ないもの。
そういう意味でいえば、卑屈になるということは、言われたら痛い言葉を、受け入れるということなかもしれないわね。
そうであるなら、それは、とてもいいことだと思うの。
卑屈になると、案外、ここちが良いのよ。
最近ね、気が付いたことがあってね、
卑屈になっている時、自分の口から出てくる言葉を、人形や他のキャラクターに言わせると、とても、気持ちが楽になるの。
誰かからおこられたり、指摘された後なんかは、特に、おすすめね。
そうすることで、自分自身を責めずに、相手の言われたことを認めることができるから。
ちょっと、試す機会があったら試してみて。あんまり、あなたがやっているところ、想像つかないけれど。
それとは別の話。
わたし、自分自身が、輝いている時、本当に目が、真ん丸に大きく見開くの。
びっくりしているみたいに、この世界のありよう全てに、驚いている。
そういう時、わたしは、わくわくするの。
どうやって、この身体で、この世界を生きていこう?
ヨシダ君は、魂とか、体とか、そういう話、どうやって捉えているかしら。
もし、魂というものが、わたしの身体に宿っているのならば、この身体の中にいること、この身体の中から見えるもの、そのすべてが、本当に愛しいくらい、奇跡だと思うわ。
だって、身体をもらえて、それだけで、本当に信じられないようなことだもの。
今まで教わってきた全ての知識や経験を忘れ、
ただ、自分がここにあるということ
そして、目の前に、自分と同じ奇跡を宿すものがあるということ
そのこと自体を噛みしめている時、目の輝きは増し、どこにでも、なににでも、なれるような気がする。
それは、自由、そういう言葉がしっくりくるわ。
卑屈な自分と、自由な自分。
これは、すごく、違うの。離れているところにいるの。
卑屈な時、わたしの目は閉じかかって、光を失っているわ。
自由な時、わたしの目は大きくみ開かれ、驚きの光に満ちているわ。
でも、どちらも、とても、愛しくて、大事な自分ね。
わたしは、今、卑屈の方が、自由の自分よりも、ここちのいいお家になっていることが多いから、
これからは、自由のわたしが、ここちの良いお家になればいいと、思う。
それには、少しばかりの努力が必要ね。
一瞬の感動を楽しむこと。
その目の輝きのまま、進んでいくこと。
きっと、できるはずよ、わたしたち。
1999年2月2日 深大寺植物公園にて