私が下ネタを忌避し続けてきた理由

私が下ネタを忌避し続けてきた理由

みなさんは下ネタは好きだろうか。

私は嫌いである。下ネタ嫌い派の人間にも色々な理由があるだろうが、どうやら私は少し変わった理由を持っているらしい。

おもしろくないのに笑いが起きるのが許せないのだ。

にやにやした顔をしたクラスのお調子者が卑猥な言葉を口にするだけで、周りの人間はそれを「面白い」と評価する。笑いこそが世界のすべてだと思い込んでいた当時の私にとって、それは許しがたい蛮行であった。

間もテンポもよく分かっておらず、ワードセンスもスッカスカ、ツッコミのツの字も知らないような三下が、卑猥な言葉をぼそりと呟くだけで乾いた笑いが巻き起こる。当時の私は、毎晩お笑い場組をチェックし、画面に映る芸人たちから技術を盗むことに躍起になっていた。しかしながら、下ネタで取れる笑い以上の爆笑を巻き起こせるほどの技術は得られていなかった。何のセンスもない人間が下ネタを用いるだけで、自分よりはるかに安定した笑いを掻っ攫っていく。屈辱以外の何物でもなかった。

下ネタは、言うなれば笑いのドーピングである。何の努力をしなくてもある程度の笑いは起こる。「言っちゃいけないことを言ってやった」というアングラな高揚感。まじめな顔をしながら下ネタをつぶやくだけで生じる緊張と緩和。大きな物語の終焉後であってなお、全人類共通言語として根強く残る最強のワード。素人が適当に連発しているだけで、最低限の笑いとして成立してしまう。テレビにかじりつき笑いに真摯に向き合った若い少年は、下ネタを「邪道」とみなし、強い敵愾心とともに忌避し続けることとなった。


昨年の年末の話だ。ひょんなことから友人に誘われ、とあるお笑いライブを見に京都のよしもと祇園花月に足を運ぶことになった。

席に座ってから衝撃の事実が判明した。その公演は「放送禁止用語なんでもOK」なんだだそうだ(三浦マイルドが年一で開く恒例行事らしく、そんなライブはめったにない)。そもそも同行者も知らなかったようである。

当時の私は「理由はわからないが、下ネタはNG」というスタンスを取り続けていたため、一瞬頭を抱えたが、お金も払った手前帰るのは大阪人の血が許さない。金を払ったが運の尽き、この地獄を最後まで見てやろうじゃねえかと決心した。

爆笑した。

流石プロの芸人だ。とかく、面白いのだ。ネタを行った10組ほどのうち、そのほとんどは下ネタまみれであったが、とても面白かった。

とはいえ、勢いに任せて下ネタを連呼するだけの組もあり、「クラスのお調子者が下ネタを言って笑いを掻っ攫う」という、あのじっとりとした忌々しい記憶が蘇ったりもした。しかし大半の組は、「盤石な笑いの技術があり、その上に下ネタが乗っかっている」と感じた。上なのか下なのかよくわからないが、とにかく下ネタは単なるアクセントに過ぎなかった。

このライブに行ったことで、自分が下ネタに対して抱いていた忌避感の正体がようやく明らかになった。

おもしろくないのに笑いが起きるのが許せないのだ。

そして、金属バットは最高だった。

<参考>

今年のライブ 誰か誘ってくれたら今年も行くかも

出演者のにぼし・いわしが当該ライブについて語ったpodcast