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創作活動を楽しくするために
~卵は鶏を産まぬ、鶏は卵に育たぬ、卵はみな卵~

創作活動を楽しくするために<br>~卵は鶏を産まぬ、鶏は卵に育たぬ、卵はみな卵~
書いたひと: COLOR pencils

 

はじめに

この文章は、創作活動を志す私の仲間が、なかなか表現できずに苦しんでいる様子を見て、どうにか力になれないかと思い執筆したものです。

書くことが中心に書かれてはいますが、一般的に「やりたい!けどやれない」という状態に陥っている人にはあてはまめることができるかもしれません。

きっと、やりたい!と思う気持ちには意味があると思います。どうか、それが現実に実りになることを祈って。

2021年2月6日 COLOR pencils


 

なにかをつくる

なにかを表現する

 

「人に見せる」

その意識が出てきた瞬間、急激に、それが難しくなることがある。

例えば、この文章はどうだろうか。

と、書いたら、突然に、手が止まってしまった。

私は、いったい、誰に書いているのだろうか?

じゃぁ、こう考えてみたらどうだろうか。

このように、私の手がパソコンのキーボードをたたいて画面に言葉を表す、その前の瞬間。

まだ、言葉が頭の中にあるとき。

一体、それは、どのような形でそこに保存されていたのだろうか?

いつから、はっきりとした「言葉」の形として脳に現れ、指に伝わり、文字になったのだろうか?

世の中のものを見渡すと、これは、言葉だけの問題ではないことに気が付く。

ここに存在するものたちは、もともと、人間の頭の中にあったものだ。

家も、道路も、街路樹も、電柱も、服も、車も、犬も、なにも、かも。

それを、逆再生して、人の頭のひらめきまで戻した時に見えてくる物語を想像すると、

その面白さと、数の多さと、エネルギーの多さに、身が震えてしまうほどだ。

「身が震えてしまうほどだ」、というのは、余計だったかもしれないと、

今こうして書いている文章は、客観的分析を好む方々に向けてであるということを意識した瞬間、私の指はdeleteに伸び、一度生まれた文字たちは、順番に消えていく。

一度打った文章を消していくように、人間がこの世の中に生み出したものを、一つずつ消していく。そういう想像をした時に、見えてくるものは、面白いと思う。

私は、いつもそうである。話がずれてしまう。

話をもどそう。

話は、つまり、こういうことだ。

「言葉」を生み出すとき、「もの」を生み出すとき、

そのもともとは、頭の中でどうような形だったのか?

どのようなプロセスで、外に現れるのか?

もし、言葉の原型といわれるものがあるとするならば、その表現方法は、無限とあることになる。

その中から、一つのものを選ぶとき、(一つを選ぶといえば、政治の世界がまさしくそうだ、とふと思った。)

そのプロセスに大きくかかわっているのは、読み手への意識であろう。

どのように思われたいか。どうやって評価されるか。

しかし、それを今、こうして文章を書いている私に話をあてはめてみると、必ずしもはっきりと、頭の中に読み手がいるわけでもないのだ。

一度、決まった文体は、流れというものに近くて、流れにのって私は文章を書いているような気がする。

その流れにあまり適していないものは、出てきても、自然に消されてしまう。

あたし、とっても不思議なんだ!

このような文体は、いま私がのっている流れからは、大きく異なるもので、自然に流れの中から排除されている。

そういう風に考えていくと、また、不思議なことがでてくる。

「読み手へ意識」とあったが、正確に読み手の顔を思い浮かべていないのに、

一体、私はどのように、読み手を意識できているのだろう?

一体、私のいう「読み手」とは、誰なのだろう?

なぜ、外側にいるはずの読み手が、自分の内部にいることになるのだろうか?

この問いこそが、まさしく、今回論じる問題の根幹にあたるところである。

私たち人間は、生まれたころから死ぬころまで、呼吸をするように、言葉を吸って、言葉を吐いている。

書く

話す

思考する

言葉を使う動作であれば、言葉の呼吸はどこにでも影響されている。

吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて

言葉の呼吸によって、からだの言語機能が新たに構築、更新されていく。

書きたいのに書けない

書くことを職業としているならば、「スランプ」と言われる状態になるのだろうが、それは置いておいて、「書きたいのに書けない」、このような状態は、どんな人にも身近にあったりする。

わかりやすいのは、敬語でのメールの返信。あとは、課題のレポートや報告書、企画書。

特に、慣れていない形式で書こうとする時、私の手はとまり、文字を生み出しては消し、書いたものを読み返しては変え、そんなことを無限に繰り返すことになる。

と、実は、この何気のない上の文章の中にとても大事なヒントが眠っていたりする。もう一度見てみよう。

特に、慣れていない形式で書こうとする時、私の手はとまり、文字を生み出しては消し、書いたものを読み返しては変え、そんなことを無限に繰り返すことになる。

つまり、ここでは、書けない理由として「慣れていない形式で書く」場合があげられている。

表したいことはもともと既にあるのにも関わらず、それを表すための文章の流れが慣れていないがために、書けない

これは、形式ばったものを書くときによく、陥る現象だ。

「あぁ~!お礼したいだけなのに、どうやって書けばいいのかわからないよ!敬語難しい!」

「アンタ、ちゃんとインターネットで自分で調べなさい!」

一方で、形式ばったものではないのにも関わらず、書けない時もある。

それは、自分自身が乗り慣れている文章の流れと、自分の読み手が想定する文章の流れが違う時に起こるだろう。

「本当はこういう書き方したいのに、自分の書き方の癖から脱却できない!」

また、読み手の想定が曖昧だったり、広すぎる場合も、こういうことがよく起こる。

「書いている時はよかったのに、自分の文章を読み直してみると、それに対しての抱かれる批判や嫌悪が非常によく想像できてきて、精神不安定に陥る!こんな文章書くのやめてしまおう!」

そう思って、私の文字を書かんとする手は止まってしまうのだ。

本当は結構いいこと書いてあったりするのだが。

話をもとにもどして。以上のことを外観してみると、

読み手の意識が望む文章の流れと、自分が乗りがちになってしまう文章の流れ

その差が大きい時、私は、書くことに非常に苦労を要する。

ということが見えてきた。

一方で、自分が乗りたいと思っている文章の流れと、相手の望む文章の流れが一致している時、私の手はやすむことなく、文字を打ち続け、言葉を生み出し続けることができる。

そう、いくらでも生み出し続けることができる、この良い流れこそ、何かのヒントがありそうだ。

それでは、この文章で最も言いたかったことを述べていこう。

「書きたいのに、書けない」

そう悩んでいる人への、解決策の提示だ。


「ゼロに戻ろう、鶏は卵に育たぬし、卵は鶏を産まぬのだから。

そしてなにより、卵はみな卵 」

自分に内在化された読み手意識によって、がんじがらめになり、でてくるはずの言葉たちが滞ってしまう場合が、私の経験の中に多くみられる。

こう書いたらこういう批判がでてくるだろう、やめておこう、言いなおそう、

こう書いたらでも、こう思われるかもしれない、やめておこう、言いなおそう、

…やめておこう…言い直そう…やめておこう…言い直そう…

その場合は、内在化された読み手意識を、一度ゼロにし、ゼロにした時出てくる言葉をそのまま形にあらわせばよいであろう。

その後、読み返した文章は、思っているよりも、しっかりとした形になっていることが多いのだから。

また、もう一つ。

楽しく書けるようになるためのコツが、「鶏と卵」の話の中にある。

「読み手意識(どう思われるか気にする意識)」と「表現欲求(書きたい!という気持ち)」は、鶏と卵のようなものだ。

読んでもらいたい!と読み手を意識するからこそ、表現欲求が生まれ、書きたい!と表現欲求が生まれるからこそ、読み手意識が生まれる。

しかし、この捉え方だと「鶏と卵」の話が単に、「表現欲求と読み手意識どちらが先かわからない」という話になってしまう。非常に大事なポイントはここからなのだ。

鶏は卵を産む 卵は鶏に育つ

「産む」ことと「育つ」ことはまた、別の話なのだ。

卵は鶏を「産め」ないし、鶏は卵には「育た」ない。

今度は、「表現欲求」が鶏で、「表現(作品)」が卵だと捉えてみれば。

卵を産むとき、どんな鶏にしようか、卵の将来を完璧に設計して産む親鳥などいない。

考える前に、自然の摂理で卵は生まれてくるのだ。

表現することもそれと同じで、とにかく欲求エネルギーのまま、卵を産んであげればいいじゃないか。

せっかく創りたい!と思っても、どんなものにしようか完璧に設計しようとすればするほど、卵は生まれてこなくなってしまうから。

また、「読み手意識(どう思われるか気にする意識)」は、卵を育てる第二の親として捉えてみてはどうだろうか?

読み手意識は、多々、産み親の私を、卑屈にさせてしまう。

どうせ、誰も読んでくれない、こんな文章、稚拙だと思われてる。

こんな具合で。

また、読み手の受けばかりを気にしてると、当初の書きたかったこととずれてきてしまうことがある。

この野郎!本当はこんなことが書きたかったんじゃないんだぞ!!お前のせいだ!

書いたのは自分であるのにも関わらず、なぜか誰かを責めたくなる気持ちになる。

しかし、そうではなくて、彼女を、卵を育てる第二の親として捉えたらいいと思うのだ。

とにかく欲求のまま生まれた自分仕様の卵を、より多く人に理解してもらえるように育ててくれる、よきアドバイザー。

そうやってタッグを組めば、卵を育てる過程(自分の文章の推敲や添削)も楽しめるようになってくると思うのだ。

うん、ここまで色々と書いてきた。

最後の最後に、一番伝えたい大切なことを述べて終わろう思う。

どんなに言ったって、やっぱり、自分を表現することは勇気のいることだ。

書いた後、評価されなければ、見せなければよかったと落ち込むこともある。

でもね、卵はみな卵。

この世界でどんなに評価されている作品も、誰も注目していない作品も、

もともとは「想い」の卵だったんだ。

卵には、良いも悪いも、間違いも正解も、ないのだから。

だから。

怖がることはないさ。

お互い、自分の思うまま、思いっきり表現していこう!

 

2021年2月6日 北野清子

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