私は何を「発信」してよいか

私は何を「発信」してよいか

地域おこし協力隊として求められることのひとつに地域のPRがあった。わざわざ東京まで出張して物産展へ動員されることもあったが、日常的な地域のPRといえばSNSにおける「発信」のことである。

沖へ向かう漁船を撮って投稿する、櫓を囲んだ盆踊りを撮って投稿する、漁師町の路地裏の風景を撮って投稿する。それらがなんだか不義理に感じられていたということから書き始めたい。あらかじめ断っておくが、ここで述べることは倫理的な提言として読み込まれたいものではなく、あくまで私個人の美徳感として読み流されたいものである。

地域おこしという大きな役目を背負いつつも、協力隊としての私にできることはあまりに少ないはずであった。行政にまつわる権限の話ではない。地域の受入体制の話ではない。それは、その地で育ち働いて歳月を重ね生き延びてきた人々を前にして、その地におじゃまさせてもらっただけの若輩者ができる何かがあろうものか、という至極当然の感覚である。これは地域おこしの心得でもなんでもなく、ただひたすらに人に対する素朴な敬意の話だ。

そんな感覚のなかで私にできたのは、とりあえず、ささやかに、体を動かしてみることであったと思う。

人口1900人ほどの答志島は、井戸端会議の島である。集落にはいくつか文字どおり井戸があって、その周りに家がひしめき立っている。軒先では魚を捌いていたり魚の切り身や漁師の合羽が干されていたりと生活を垣間見ることができ、家々の隙間をまがりくねる路地を歩けば、いつだって誰かに遭遇する。そうやって生まれる井戸端会議では天気のようすや釣果のあれこれや行事のやりくり等々の情報交換が主ではあったが、その合間を縫って自分のことを正直に語りつつあなたの人生や生活をまだまだ教えてもらいたい、という姿勢を心がけた。「どこから来たんや」から始まって、顔を覚えてもらえると「あんた今日はどこ行くんや」になっていく。島で生まれ育ち、働き、喧嘩した時も、恋愛する時も、同じく井戸端会議がひらかれていたであろう島の綿密な情報網に、とりあえず体を浸してみる。

伊勢湾に浮かぶ答志島は、漁師の島である。夏にはサザエやウニを獲りに潜って、秋にはサワラを釣ってイセエビをあげて、春にワカメを刈り取るときには一家総出となる。とりあえず方法を教わって、とりあえず手伝った。何十年も漁師をしている人たちの前で、効率化のための機会導入も収益化のための販路拡大もできなかったが、とりあえず島の人と同じ服を着て、同じように座って、同じ道具を手にした。やっていくとだんだん「だいたいでええよ」と言われていた「だいたい」の適切な塩梅が分かってくる気がする。「ここまででええよ」と言われていた仕事からちょっとずつ他のことも任せてくれるようになる。

小学生40人中学生20人ほどの児童生徒を有する答志島は、子育ての島である。例えば保育所・小学校・中学校の合同運動会では、親のみならず地域の大人たちが観覧し時には参加する。刮目すべきは当日までの準備で、地域の各種団体から人数を集めて一斉に草刈りや整備や設営を行う、一大イベントである。子どものためなら微力でも尽くそうという男気が既存の自治組織と相まって恒例の結束となっているようだった。かないっこない自治を身につけた大人たちに溢れる島の中で、私は子どもたちの第三の居場所となるべく拠点の運営を行っていた。とりあえず鬼ごっこをした。ひたすら名前を覚えて、ひたすら走って、ひたすら叩かれて、ひたすら追いかけた。子どもってこういうものという一般化や、この子ってこういう子という先入観、子どもにはこうすべきという独りよがりは、なるべく排した。とりあえず子どもたちのルールの中で、子どもたちのやろうとしている遊びを見つめようとした。

1年の島暮らしの中から、いくつかの要素を取り出してみた。

とりあえず、ささやかに、体を動かしてみることであった。価値判断や取捨選択をするまえに、とりあえず素直に関与してみること。目の前の人から何かを得ようと思いすぎず、しかし誠心から興味をもって、ささやかに模倣してみること。何かを言ったり何かを書いたりするよりも、体を投じて時間や空間を共有してみること。もちろん、この無計画で粗末な足掻きを受け入れていてくれた地域の皆さんのあたたかさがあってのことである。

妙だなと感じる方法にもそれなりの理由や試行錯誤があって、正しそうだなと感じる意見にもそれなりの葛藤や反発があって、変だなと感じる人にもそれなりの人生がある。当たり前の感覚だと思う。

立ち戻ると、そうやって暮らすなかで「発信」することができようものか、という話であった。SNSに写真を上げたとしても、風景はもっと立体的なはずで、人はもっと深遠であるはずだ。目の前のものや人を捨象して、厚顔無恥に振り回してはいないか。不義理と不安を感じながらも、なんとなく「発信」を続けた1年だった。協力隊として島でやろうとしたことと比べるとSNSの運用は些事ではあったが、「発信」という回路が用意されていることは独特の感覚であったように振り返る。具体的に行っていたのは、Instagramでストーリーズに追加するだけのことであったのだが。

では翻って、私は何を「発信」してよいか。私はどのような私の「発信」を違和感なく首肯できるか。私は何なら「発信」したいのか。この問いがこの記事を書くにあたっての本丸である。

私が私のものであると自負を持って「発信」することのできる小さな領域は、にっちもさっちもいかず、どうやら文芸であるようだ。

ここでいう文芸とは、私を起点として繋ぎ合わせた感覚を文章で現したもの、私から見えた世界の様相を文章で呈したものとしておきたい。簡素に言うならば、私の気持ちを私なりに書いたもの。

私の自負する文芸にとって、ひとつには、私中心にまとめあげるという過程がどうやら肝心らしい。「この有名人の情報をまとめました」という記事は情報にすぎないけれど、「この人のことを好きな私の気持ち」を書くならば文芸となる。「あの場所の観光マップをつくりました」という仕事は処理にすぎないけれど、「あの場所を訪れた私の気持ち」について書くならば文芸となる。他人や異国についてただ記述するだけでは文芸にはならない。逆にいえば、登場する人物や論じる場所が外のものであったとしても、私の感受性を起点としてそれらを繋ぎ合わせるならば、私は私の「発信」として許せる。

もうひとつには、言葉を用いるという方法がどうやら勘所らしい。それらが私の集めたものであったとしても、家具を見渡すルームツアーとか服を着替えるルックブックとかは、なんだか自分のものとしては公開しがたい。家具にも服にも思い入れはあるけれど、きっと家具を組み立てたのも服を縫ったのも私の手柄ではないというのが理由だろう。さりとて言葉も人々の連綿と続く遺産ではあるのだが、私はいくらか私の言葉および思考について借り物ではないという実感があるのだと思う。

私の感情を知っている人は、私以上にいないと思う。当然である。それが自分というものである。私にとって世界がどのように見えるかを書いた文章は、私にしか書けないものだと思う。素朴な矜持である。この文に芸があるかは分からないけれど、少なからず私は私の文章を私のつくったものだと言える。

ここに行ったとか、あれを見たとか、これを買ったとか、あれを食べたとか、それを「発信」してあたかも自分の手中に収めたと感じてしまうことを恐れている。ただの訪問者であり、見物客であり、購入者であり、消費者でしかない時に、それらをあたかも知っている者として勘違いしてしまうことを恐れている。何かを知ろうとする時に、私にできることは、とりあえず、ささやかに、体を動かしてみることだったと思う。私が私のつくったものであると「発信」できることは、せいぜい、私の自負するものであるところの文芸である。

 

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なお、記事に着手するにあたって『文学のエコロジー』(山本貴光, 2023)より多大な示唆を受けた。また、島における全ての感受は私に関わってくれた答志島の皆さんのあたかい人間性によるものである。深く感謝を申し上げる。