どうもはじめまして。酔鯨です。
文学部で日本文学や言語学について学んでいます。
まず、私がなぜ千万遍石垣を介して文章を書くに至ったかという経緯についてお話したいと思います。ので、今回はお試しと称して自分語りの回です。難しい話でもないのでダラっと流し読みして、「ふむふむ酔鯨とはこんなヤツなんだな」と思ってください。
…この数行読んでお分かりかと思いますが、他の方の投稿と比べ語彙力もユーモアもない稚拙で内容のない文章です。どうか生暖かい目で。
「酔鯨って文章書くのは凡人並みやけど、口頭で文章にするのはマジで下手糞やな。」
ちょっとはっきりした物言いの知り合いに言われた言葉です。怒りませんでした。自覚があるので。言いたいことがたくさんあるのに、沸き起こる言葉や感情があるのに言葉にできない。つまり自分の感情や思いを文章化する的確なボキャブラリーが見つからないのです。
ではなぜでしょうか。私は「それらを言葉に表すために必要な知識がない」からだということに気付きました。(当たり前かもしれませんね)
例を挙げるとすると、今まで先輩方があげていらっしゃる千万遍石垣の投稿が的確ではないかと考えます。某テーマパークを誰もが思いつかないような方向へ論じられていたり、某チョコレート会社関連のイベントについての投稿であったりなど、先輩方の秀逸な文章はやはり膨大な知識量があってこその賜物であると私は思います。
◎面白い(Interesting)文章=知識がある故のボキャブラリーの多さからくる、内容の充実・独特な言い回し・感性の豊かさ によってつくられていることにたどり着きました。
さぁここまで当たり前なことしか言っていないですが、本題に戻ります。なぜ私が千万遍石垣で文章をあげるのか。
脱線しますが、孔子の言葉にこのようなものがあります。
仲尼曰。志有之。言以足志、文以足言。不言誰知其志。言之無文、行而不遠。
「言葉というのは(目に見える)文章になって初めて輝くのである。」
言葉というのは可視化できる文章(あや、かざり)を通して、相手にやっと強く思いが届くのであるという孔子の言葉です。
孔子が言っているから、ではないのですがやはり説得力のある漢文です。常識的ですが、音声という「言葉」で伝えるに加え、紙など、見ることができる媒体で伝えるとより情報が印象に残ることが、今までの経験で分かります。まずはここ千万遍石垣で自分の頭の中を文章にする。そして的確に言葉を遊ぶことで相手に思いを伝えることが日々を、いや人生をよりよくするための大きな方法ではないかと考えました。
さぁ、ここから酔鯨の成長物語の幕開けです。
皆、刮目せよ。