どうも、アストナージ3です。
「タテカン」ってなにかと話題ですよね。百万遍に何か立ってればそれをめぐってTwitterがさわがしくなる。その内容に、形式に、職員の撤去のさまに、そしてタテカンの在り方や是非にまで議論(レスバトル)が広がっていく…。
「タテカン」を知らない京大生はモグリだなんて言うと、ちょっと言い過ぎかもしれないけど、京大生と話していればどこかで必ず「タテカン」は耳に入ってくる。そして話題に昇れば会話の参加者は自然とそれへの態度表明を迫られる。みなさんは「タテカン」に対して、どういう態度をとってきただろうか。
教育学部の調査研究報告書の中で小野文生先生という方が教養主義を引き合いに出して「京大らしさ」についてこのように書いていた。
つまり、「京大らしさ」は必ずしもはじめから実体のごとくあるのではなく、何か名状しがたいユニークで逸脱的なできごとが生じたときに、それを「京大らしい」と表象して許容するという行為が、まさに遂行的に「京大らしさ」を産出しているわけである。
「おまえ、京大生やったら、これくらいのことは知ってるやろ?」という圧力が教養測定テストとなりもすれば教養への渇望を生み出しているのと同様に、「おまえ、京大生やったら、これくらいの<京大らしさ>は受け容れられるやろ?」という圧力が「京大らしさ」測定テストとなり、また「京大らしさ」への渇望を生み出しているのではないだろうか。そして、「教養」が知るものと知らないものとを無慈悲なまでに線引きするように、この「許容」が京大の学風を受け継ぐものとそうでないものとを線引きしてゆく。「京大らしさ」について<語る>ことが、すなわち「京大らしく」<する>ことへ送られ、それがそのまま「京大らしく」<なる>ことへ送られる。<語ること>は、<すること>であり、<なること>なのである。〈学〉における〈風〉の存在理由――「京大らしさ」へのひとつのパースペクティヴ
小野 文生
平成20年度総長裁量経費研究プロジェクト「大学のアウトリーチ活動の方法開発に関する教育学研究:日中独比較研究を通して京都大学の可能性を探る」個別研究報告書3『研究調査報告書 京都大学らしさの根源を探る』(研究代表者:鈴木晶子), pp.45 – 53, 2009年
これはこれで面白い文章なんだけど、本筋とはあまり関係がないかも(じゃあなんで引いたんだよ)。
まあこういう圧力があるのは、ぼくの肌感覚としてもなんとなく納得がいく。日々Twitter上で繰り返される「お気持ち表明合戦」に対して、「タテカン」を語ることで、京大生になれるという指摘もあった。
立て看とかの話をしてる間って「京大生」として存在していられるんですよね。もしそういう話題がないと自分自身と向き合う時間が増えるし、勉強してない人とかだと、自分の現状が京大生としてあるべき姿なのかどうかを自問して気が滅入ることもあるんじゃないですか?
— 燦燦 (@czxtqp) May 2, 2021
京大を語ることで京大生になれる。これはおもしろい。そしてこれによって京大生が京大について語る際にはやっぱりみんなが同じような雰囲気を持ち合わせているのではないだろうか。
京大生なら誰しもみんなこういう「おもろい」に寛容なんですよ。こうした”自由”たちの存在自体を認めてくれてる。でも実際に企画して準備して行動してっていう層とは明確に温度差というか認識の差がある。ぼくもコロナ禍で企画やったり、逆に企画に参加したりしていろんな人と話したけど、企画を自分から起こしていく人たちと、そうでない人。こういう差ってわりとみんな感じてるかも。京大ではさっき引用したみたいな仕組みも働いていて、誰かがやってるのを面白がって日々の話題に消化することは浸透しているけど、そういう「おもろい」を自分からやろうってのはすくなくとも雰囲気や圧力としては感じない。見るのとやるのは違う。当たり前のことだけど、この差っておもしろい。
「タテカン」を遠くから眺めておもしろがるっていうのは多くの京大生が共有できていること。
でも「タテカンを立てる」ことは違う。
なんで今回は、実際にタテカンを立てている人の話を聞きながら「なぜタテカンを立てるのか」についてしらべてみたい。
分からなかったら聞いてみよう
とまあタテカンを立てる人は基本名乗り出たりしない(メリットがないので)。
一部からは「タテカンは誰かが立ててるわけじゃなくて石垣から自然に生えてくる」というお話を聞いたんですけども、まあ今回は「タテカン」を立てる理由に踏み込みたいので、野暮ではあるが地道にお話を聞いていく。匿名性の芸術(♰バンクシー♰かよ)とはいっても、知り合いに聞いていけば何人かには出会えた。
「『タテカン』が好き。だからこの文化を守りたい。」
「学生自治や問題意識の入り口として『タテカン』はわかりやすい。これをきっかけに京大についていろいろ考えてくれれば。」
「『タテカン』を立てて京大文化に参加することで”京大生”になりたい。」
「自分の好きなキャラをデカい板に描きたい。」
「面白いネタがあるからタテカンにしたい。」
とまあ、自分がこれまで話を聞いてきた人はこんな感じだったと思う。
(僕に話したのにうまく伝わってない..とか、自分はこういう理由で…という人がいれば「タテカンを立てる理由」について送っていただきたい。そしたら改めてまとめたいと思います。)。
なるほど。みんなはこんな理由でタテカンを立てるのか。
まとめておいてなんだが、こうしてまとめるのには一つ問題点がある。
タテカンは組織的な活動ではく、場当たり的でその場のノリがかなりのものを言うモノであるということだ。
タテカン立てる人同士で決まったフォーマットやルールがあるわけでもなければ、お互いにだれが立ててるのかもわからない。
京大生(もしくは市民)が各々勝手に立ててるものを、見てる側が総合して「あれらはタテカンだ」と思ってるだけ。
つまり個々のタテカンはそれぞれ独立してるし、統一して論じるのはナンセンスだということ(京大文化全般そうだけど)。
まあでも「石垣に何か立てる」っていう行為をなぜしようとおもうのか。その一端はすこしさわれた気がする。
タテカン規制から3年、世代間のギャップ
2018年のタテカン規制以前は自由にタテカンを立てられた。下の画像みたいなのが日常だったらしい。
で、今は2021年。さっき撮ってきた石垣の画像がこちら。
タテカン規制から3年。大学生にとってこれは大きい。
タテカンが当たり前の日常を知っているのはもう4回生だけになった(しかも2018年5月からタテカン規程だから、4回生ですら1か月くらいしか知らないわけだ)。1~3回生にとって、石垣ははじめから「こざっぱりしてはる」し、それが当然だと感じている。タテカンが出てくるのは非日常で、だからこそTwitterでもお祭り(議論・拡散)になる。
僕らはタテカンとは何なのか、それが何のためにあり、何になるのか(もしくはならないのか)を知らない。
まとめ
いろいろ見てみたが結論はなんともしまらない。
まあそれぞれ理由があって立てるんだろうな。
みたいな。結局「タテカン」が何かも、何のためにたてるのかも完璧にはわからなかった。でもタテカン訴訟を前にして「タテカン」を改めて考えるためには、僕らが「タテカン」を立てる(もしくは立てない)ための、新しい理由が必要なのではないだろうか。「タテカン」を立てる理由、もっと言えばあなたが行動する理由、そういう温度や思いが見えてくれば、僕たちだってこれからの京大生だって、漠然と「おもろい」と捉えるだけだったものたちに触れてみようと思えるのではないだろうか。