「我ここに立つ、<br>まぁ何でもいいや。」

「我ここに立つ、
まぁ何でもいいや。」

こうして文章が書けていること自体が本当に不思議なことである。そもそも、わたし、あたし、どうして文章を書けるんだろう?どうして、言葉を話せるんだろう。この文章を読む人は、頭の中でどんな声をこの文字から感じているんだろう?

今までの文章、だいたいの文は一体だれが書いたのかわからなくて、それはまるで、神様のような感じみたいに、それを読むと、まるでそれがこの世界の正解のように感じることがあったの。

例えばね、小説。小説の登場人物がいくらひねくれていても、なんだか親しみが持てちゃう。夏目漱石の『坊ちゃん』とかさ。だけれど、それがいざ、本物の人間になってそばにいられると、これはこれは、好きになるというか、上手に付き合うのがとっても難しそう!小説の時のようには親近感をもてないね。

この文章は、わたしが書いています、いや、実はね、わたしは前世はカラスだったんだけれど、その前世がカラスだった人間が書いています。いや、一体、急な文脈、どうしたことだろうか?

自分でこれを見返したとき、わたしは、嫌な文章だなぁって思います。間違っても、書店とかで売っていても、私は買わないわ。だって、わかってるもの。当たり前のことが書いてあるだけだもの。そうなのね、あのね、実は文章って、色んな人の当たり前が書いてあるだけなような気もしてるんだ。もし、作者の人と、その当たり前が似ていたら、わたしは嬉しいし、特に自分だけ寂しさを感じていた時、自分と似た人を見つけたらすっごく嬉しいし、その作者の人のことすっごく好きになると思うんだ。だけど、その当たり前が、ちょっと、どころか違い過ぎたら、これはまたまた、へぇ、こんな人もいるんやなぁ、すごいなぁ、とかそういう風になるけれど、結局人間。内面を掘れば、必ず、共通するところが見つかると思うのね、だから、完璧にわからない!完全にわからない!という人には会ったこと、本でね、まだないわ。

特に、言うことはない。ただ、自分の頭の中をね、生理、おっとこれは女性のthing、整理するためには、こうして誰かに話しかけるように、誰かにきいてもらっているように、書く、いな、言葉を生み出す必要があるのよ。だから、話すのも、書くのも一緒。わたしにとっては、歌うこともダンスすることも、ピアノをひくことも、書くのと一緒。それは、不思議な感じだけれど、日常会話に似ているかもしれません。

千万遍石垣はね、何度も、よし!のせるぞ!って思ってたんだ。なぜなら、私の大好きなヨシだ君とその仲間が始めたものだから。ヨシだ君にはいつも、思うことがあるたびに話を聞いてもらっていて、それをそのまま、こうして、文章にして、千万遍石垣にのっければいいじゃないか!と思っていたのだけれど、書くたびに、

なんであたしは書いているんだ?みんなに、認められたいのか?自分の考えをわかってほしいのか?なんなのか、一体わたしはなんで、わざわざ、書いたものを公開する必要があるのだ!という風に、よく、わからなくって、それは、書いたもの、自分の考えを読んでもらうのは、すごく、一方的なコミュニケーション、自己満足、承認欲求そういうもののエゴの塊のような気がしてね、結局、全然、書けませんでした。

しかしながら、今。我はここに立つ。千万遍石垣の歴史に名を残すため。仲間たちとともに、この日本を変えるため。

まぁ、何でもいいや。とりあえず、なんか面白そうだからやってみっか。これでウェブ観覧数が増えてお金が入ってきたら、ラッキーだし!

両極端のワタシがわたしの中で共存している今日この頃ですが、わたしはこのたび、千万遍石垣にわたしの思う、こと、それは大体ヨシだ君宛てになってはいますが、それを公開してみようと思います。

1995年1月2日 京都大学熊野寮にて